現代書館

WEBマガジン 11/07/27


第二十九回 ハサミの値札の法則

斎藤美奈子



森達也さま


 震災から3カ月半が経ちました。3カ月半たっても、避難民は8万人以上。ガレキの撤去も進まず、福島第一原発で浄化した汚染水を原子炉の冷却に使う循環注水冷却装置はトラブル続きで、なんら進展しているとはいません。変わったことといえば、この状況になんとなく「慣れてしまった」ことかもしれない。
 
 いまの私の状態を一言でいうと、完全な「震災&原発アパシー」です。
 三月、四月は平常心を完璧に失っていたと思いますね。
 震災と原発事故のことしか考えることができず、テレビやネットはもちろん、手当たり次第に雑誌を買ったり本を読んだりしていました。こまかい情報にいちいち一喜一憂し、怒りまくり、会う人ごとに原発事故と放射能汚染の話をしてました。
 震災とも原発とも関係のない原稿はすべて「のんき」に思えて、まったく書く気がしなかった(とはいえ書かなきゃしょうがないので往生しました)。雑誌連載などのレギュラーの原稿も、できる限り「震災シフト」の話題にまわして、10本くらいは書いたかな。あとで読んだら、このころ書いた原稿はひどいかもしれませんね(読み直していませんが)。
 五月の連休明けくらいから「これではいかん」と思い直し、生活を立て直して日常シフトに戻ろうとしたのですが、そして実際にもかなり元の感覚に戻ったのですが、六月をすぎた頃から、急におそってきたアパシー状態。あんなに熱心に被災情報や原発情報を追いかけていたのに、何を見ても読んでも、何も感じなくなった。
 菊地さんの催促に応えなくては何か書かなくてはと思いつつ、応答できなかったのは、必ずしも仕事が忙しかったとかサボッていたとかではなく、「書けなかった」というのが正直なところです。気力がまったく出ず、パソコンに向かっても何も出てこないのです。

 まだ三カ月あまりしかたっていないのに、こういう状態に陥るとは、われながら問題です。 最初は異様に盛り上がり、その反動で自らに食傷し、「もう、この件はいいや」となって、やがてフェィドアウトする。そして、肝心なときには関心を失っている。メディアにおける報道量の推移と同じ。すべてのニュースが、そうやって「消費」されてきたわけです。貴君の専門分野(?)であるオウム真理教事件は、その最たるものでしょう。
 こんどの震災と事故はあまりにもコトが重大なので、さすがに今までのように「もう、この件はいいや」とはならないだろうと思いますが、それでも当初の熱は冷めはじめています。

 愚痴をこぼしていてもしょうがないので、気力をふりしぼって続けます。
 ネット上の情報で、最近、注意を喚起されたのは「原発事故をテレビ報道はどう伝えたか」に関連したこの記事です。

 「原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない」(『ジャーナリズム』11年6月号からの転載)。書き手はTBS報道局の金平茂紀氏。
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201106090286.html

 大震災発生からほぼ2カ月(5月9日)の時点で書かれた原稿で、金平さんは「なぜ日本の原発が今回のような惨事を引き起こす事態に至ったのかを解くための、きわめて重要なカギ」がテレビ報道の中からも見えてくるとし、論点を七つにまとめています。

ここから引用↓
……………………………………………………
 (1)今回の原発事故の重大性、深刻さをテレビは伝えることができたか? メディア自身にとって「想定外」だったことはないか? 当初の「レベル4」という原子力安全・保安院発表に追随するような「発表ジャーナリズム」に疑義を呈することができていたか?

 (2)事故について解説する専門家、識者、学者の選定に「推進派」寄りのバイアスがなかったか? その一方で「反対派」「批判派」に対して排除・忌避するようなバイアスがなかったかどうか?

 (3)原発からの距離によって描かれた同心円による区切り(原発から何キロ圏内)を設定してメディア取材の自主規制を行っていたことをどうみるか? さらに各メディアによって設けられた取材者の被ばく線量の基準は妥当だったかどうか? 一方で、線量計を持参して原発至近距離までの取材を試みたフリーランンスの取材者をどのように評価するか?

 (4)「風評被害」の発生について、テレビはどんな役割を果たしたのか? パニックの発生を恐れるあまり、過剰に安全性を強調することがなかったか? 安全性を主張する際にその根拠にまで遡及して報じていたか?

 (5)「国策」化していた原子力発電推進について、テレビが果たしてきた役割を検証する自省的視点があったかどうか? 電力会社の隠蔽体質や情報コントロールについて批判する視点が担保されていたかどうか? 

 (6)テレビにおける過去の原子力報道の歴史を共有できていたか? 原発を扱うことをタブー視する空気にどこまで抗してきたかどうか? スポンサーとしての電力会社を「相対化」する視点がしっかりと確保されていたかどうか?

 (7)テレビに限らず、企業メディアにおける科学部記者、専門記者の原子力発電に関する視点、立ち位置が批判的に検証されてきたことがあるか? 何よりもテレビにおいて、原発問題に関して専門記者が育成されてきたかどうか? 記者が推進側と「癒着」しているような構造はなかったかどうか?
……………………………………………………
引用終わり

 (1)から(4)は福島第1原発の事故報道、(5)から(7)は原発をめぐるこれまでの報道にかかわっているわけですが、結論からいえば(1)から(7)のすべてにおいて、テレビをはじめとする日本のメディアは「腐っていた」といわざるを得ません。いま現在もこれらの論点への反省があるとも、反省が生かされているとも言えません。
〈私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか〉
 と金平氏は書いていますが、繰り返すのだよね、きっと。ていうか、もう繰り返している。

 歴史を繰り返さないためには、メディアの自己検証が必要ですが、それは原理的に不可能なのでは、と私は思ってきました。で、それを「ハサミの値札の法則」と名付けました。ハサミに糸でぶらさがっている値札を切るためには「別のハサミ」がいるんだよね。
 しかし、だからといって「ハサミの値札の法則なんだから仕方がない」といってはいられないような危機感も感じています(金平氏は、上の記事でNHKや朝日新聞の例をあげていますが、じゃあTBSの報道はどうだったのか、という検証は行っていません)。
 どうしたら「歴史を繰り返さない」ですむのかを、他人事ではなく、自分の問題として真剣に考えなくていけないと思っています。

 昨年、筑摩書房からかつて出ていた『展望』という雑誌のアンソロジーを、大澤真幸さんや原武史さんといっしょに編んだのですが、そのときに読んだ70年代の論考のなかに、東大で公害原論を講じていたころの宇井純さんの「住民運動から自立へ」という論文がありました。
 いま、ちょっと見当たらないので、くわしくはいずれご報告しますが、そこで宇井さんは、日本の「企業」「行政」「科学者」の三者に対する厳しい批判を展開しています。これほどまでに「住民の敵」として君臨する企業や行政は、世界的にも稀である、と。
 いまもまったく同じだなあ、と思いつつ、ひとつ新鮮だったのは、70年代においてマスメディアはけっして住民運動の「敵」ではなかったということでした。
 いったい、いつからこうなっちゃったのか……。

 今週末は八丈島に行きます(残念ながら仕事です)。少し気分をリフレッシュして、気合いを入れ直さなくちゃなと思っているところ。返信おそくなって、ごめんなさいでした。


斎藤美奈子

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