現代書館

WEBマガジン 14/09/16


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第三十回

件名 :朝日新聞誤報と謝罪問題
投稿者:森 達也 2014/09/04

斎藤美奈子 様

池上彰さんのコラム「新聞ななめ読み」を読んだ。この掲載を断った朝日の見識をまずは疑う。自社に対しての批判を載せないというのであれば、それは完全にジャーナリズムの放棄だ。
でも、朝日は謝罪すべきとの池上さんの主張に、強い違和感も持ったことも事実。例えばコラムの最後に池上さんは、「過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか」と書いている。本文中には「お詫びがなければ、試みは台無しです」とも。
そうだろうか。
メディアは安易に謝罪すべきではない。例えばNYタイムズには「correction」というスペースがあって、過去の記事の過ちや間違いを、すべて記者の実名なども含めて提示している。ソースの確認に誤りがあったとか、○○デスクの判断が甘かったとか。訂正だけではなく、誤ったその理由などもしっかりと明記する。ただしそこには謝罪のニュアンスはない。言葉で謝罪はしないけれど、間違えた過程や記者の名前、そしてこれに対しての処分なども発表する。

ここは想像だけど、謝罪の強要はメディアを委縮させるとの意識があるのだと思う。でも過ちは認める。しっかりと検証する。そして公開する。だから読者も、メディアも時には間違えるのだというリテラシーを持って接することができる。

その意味で朝日の8月5日・6日付の慰安婦検証記事は、この取材に関わった記者の名前をまったく明らかにしていないし、現在のコメントなども掲載していない。まずはこれがダメ。訂正のうえで間違いの過程を検証し、さらに責任の所在を公開して、場合によっては処分する。それがメディアの謝罪だ。言葉で「ごめんなさい」とか「申し訳ない」などと言われても仕方がない。イラク戦争時における大量破壊兵器の報道を例に挙げるまでもなく、メディアの間違いは途轍もない規模の被害を生むのだから。いまさら謝られても困る。謝罪の言葉などで追いつくはずがない。
池上さんが指摘するように、朝日が間違いを認めるタイミングがあまりに遅かったことは確か。ならば朝日は検証記事で、遅れた理由も検証すべきだった。なぜ遅れたのか。その背景では誰がどう指示をしたのか。どんな力学が社内で働いたのか。責任ある人はいま、どのような発言をするのか、そうした要素がまったくない。
でもこれに対して、謝罪の言葉がないとの詰め寄りかたは、結局はメディアを委縮させるばかりだ。その帰結として権力や民意への従属度が強化される。それは(国民にとって)さらに大きな不利益を派生する。


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