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WEBマガジン 23/02/24


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第136回

件名:ロシアによるウクライナ侵攻から一年
投稿者:森 達也

美奈子さま

 ロシアによるウクライナ侵攻から一年。おそらくというか間違いなく、侵攻前にプーチンはウクライナを舐めていた。圧倒的な軍事攻勢を受けたキーウはすぐに陥落するし、ゼレンスキーは国外に亡命するだろうと。そしてその予想はプーチンだけではなく、僕も含めて世界の多くの人が共有していたと思う。
 でもウクライナは頑張る。国民にテレビで火炎瓶の作りかたを伝授したり、18歳以上の男性に国外脱出を禁じたりなどの措置には強い違和感を持つけれど、予想以上に頑張っていることは事実だ。
 今朝の海外ニュースで、イギリスはロンドンの主要道路を青と黄色のウクライナ・カラーに染めたとの報道があった。日本も含めて西側世界はウクライナ応援一色。兵器をどんどん送る。支援しなければウクライナは占領される。でも本当にこれでいいのか。最新鋭戦車レオパルト2をウクライナに送ることにドイツは逡巡したけれど、結局は西側諸国からの圧力に屈して供与を決定した。
 今の国際世論のありかたについて、これで本当にいいのだろうかと時おり不安になる。マイダン革命におけるアメリカの介入やミンスク合意の不履行、ウクライナに実際にいたネオナチ勢力やNATOのロシアに対する不誠実さなど、ロシアの側に立てば、実のところ理はいくつかある。でもそれはそれとして、やはり武力侵攻に踏みきったプーチンを肯定することは絶対にできない。
 でもやはり、今の世界を見回しながら、何かが違うのではないか、とふと思う。何かがずれているのではないか。何かに感覚麻痺しているのではないか。

 テレビディレクター時代、シベリアで遭難したことがある。世界で最も寒い国と言われるロシア連邦サハ共和国。永久凍土の下で凍結しているマンモスの発掘を撮影することが目的だった。
 大河レナ川のほとりにテントを張って旧式の消防用ポンプを使って永久凍土を溶かす。その日のうちに巨大な牙を持つマンモスの頭部が凍った土中から現れた。そして翌日にもう一つ。無事に撮影は終わったけれど、(経緯は省きます)迎えのヘリが来ない。
 広大なツンドラで一週間ほどを過ごした。食料は底をつきた。何よりも寒さがすさまじい。夜にテントで分厚い寝袋にくるまっても、地面から浸みだしてくる冷気に全身を包まれるのだ。このままでは日本人スタッフの命が危ないと判断したロシア人コーディネーターが、近く(とはいっても50キロほど離れている)にロシア軍の秘密基地があるから救助を頼もうと提案して徒歩で向かった。
 ほぼ一日後、早朝にテントが揺れた。外に出ればロシアの旧式な装甲車が走ってきた。降りてきた兵士は三人。上官らしい小柄な男が、日本とロシアのあいだには過去に不幸な戦争があったが、今は友好国であって世界はひとつなのだ、などと小さな箱の上に立って演説しているあいだ、僕も含めて日本人スタッフは、人のよさそうな二人の兵士から渡された黒パンや缶詰を必死で食べていた。
 今のロシアとウクライナの戦争は、ウクライナの兵士や市民だけではなく、動員されたロシア兵の命も大量に奪い続けている。ウクライナ市民と兵士は2万人以上が犠牲になり、ロシア兵に至っては20万人以上が戦死したと報道されている。追いつめられたプーチンは核兵器の使用すらほのめかす。ならば世界は気づいたはずだ。核兵器が抑止力であるという論理は間違いだったのだと。

 救助された僕たち日本人スタッフは、初めて装甲車に乗った。ところが秘密基地に向かう途中、装甲車は急停止した。キャタピラが外れたらしい。外に出て天を仰ぐ兵士たちに「基地に連絡すればいいじゃないか」と言えば、申し訳なさそうに「通信機は壊れている」との答えが返ってきた。
 「ならばどうするの」
 「ここでキャンプするしかない」
 あなたたちは何しに来たんだよと言いかけたとき、たまたま上空を飛んでいた軍用ヘリが装甲車を発見した。ヘリに乗り込む僕たち日本人スタッフを、良かった良かったと微笑みながら見送ってくれた三人の兵士たちは、今はどうしているのだろう。もう前線に送られる齢ではないと思うけれど。

森 達也

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