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「男爵」「王」と呼ばれた男

「男爵」「王」と呼ばれた男

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 ご存じのとおりアメリカには、貴族制度も王制もありません。しかし、「男爵」とも「王」とも呼ばれた男がいました。しかもそれが何と日本人です。名は長沢鼎(ながさわかなえ)と言います。彼は日本ではさしたる有名人ではありません。それはなぜか? そして彼は何者なのでしょうか?

 幕末、薩摩藩の天文方の武家に生まれた長沢は、日本史に稀に見る激動の時代のただ中に生きることになりました。生麦事件の余波から薩英戦争が勃発し、敗戦後の薩摩は交戦相手であったイギリスに接近、秘密裏に留学生を送り出します。森有礼ら留学生一行の中に当時何と13歳の少年がおり、それが長沢でした。イギリスで熱く厳しく学び、アメリカ移住後は縁あってワイン作りにかかわり、ワイナリー経営に手腕を発揮。後に「自動車王」フォードや「発明王」エジソンとも交友を持つ名士になります。
幕末の薩摩藩士がアメリカでワイン農場を経営するという誰も体験しなかった波乱万丈の人生の中には、前例なき変化に立ち向かい、圧倒的な努力で世界をリードする試みを積み重ねたその後の日本人たちの生き方が詰まっています。
 後にアメリカは排日移民法、禁酒法を実施し、晩年の長沢は窮地に立ちます。そんなときでも、若くはない長沢は、しなやかな発想と深い度量で困難を乗り越えていきます。勤勉さと実直さがある限り、日本人はどこでも成功できるという先例を長沢は歴史に残しました。
 当時、ワイン業界はヨーロッパ偏重の気風が蔓延していましたが、それを覆したのも長沢でした。イギリスが初めて輸入したカリフォルニア・ワインは長沢のワインだったのです。長沢の栄光は日本の栄光だけではなく、アメリカの栄光にもなったのです。

 日本から遠く離れていたため、明治期の薩長支配体制に与しなかった長沢は日本では無名かも知れません。鹿児島の中にあっても大久保派にも西郷派にも縁を持たず、明治政府での利権には一切関わらなかった人です。なので、彼の名前は歴史の本には出てきません。
 事業能力に長けた長沢は、個人としては一貫した無欲の労働者で、終生、現場の肉体労働者でもあり続けました。はじめは偏見を持っていたアメリカ人たちもやがては長沢を尊敬せざるを得なくなり、彼を「バロン」「キング」と称し、その高潔な人格を讃えました。
 
 いまの日本にかけがえのないメッセージを届けてくれる長沢の人生を詳細に活写したのが、『海を越え、地に熟し 長沢鼎 ブドウ王になったラスト・サムライ』です。単なる偉人伝でも立身出世伝でもなく、迷い、祈り、泣く、一人の苦悩する人間の姿を描いています。是非、ご覧ください。


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