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包囲されたメディア

包囲されたメディア――表現・報道の自由と規制三法

飯室 勝彦・赤尾 光史 編著
判型
四六判 上製 232ページ
定価
2000円+税
ISBN4-7684-6824-1

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個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害環境法案とメディアの表現活動を法の執行で規制しようとする動きが、ほぼ同時に進行している。これらの動きを牽制し、その危険性を指摘しながら、最高裁が誘導した、この間の慰謝料高騰の弊害をも糺す。

[著者紹介・編集担当者より]
例えば、近頃メディアを被告とする裁判の判決で損害賠償額が急激に高騰化している。これは取材・報道に少なからず影響している。行政に屈服したような司法の姿と、表現を規制しようとする公権力。このままでは、日本のメディアの力は失われる。(菊)

 目   次

はじめに・底の浅い「表現の自由」  飯室勝彦


第一章 分断されるメディアとジャーナリズムの構造  赤尾光史

第二章 最高裁が誘導した慰謝料の高騰  飯室勝彦

第三章 個人情報保護法案におけるメディアの位置  橋場義之

第四章 青少年有害環境法案は何をねらっているか  本橋春紀

第五章 「人権」バッジをつけた“新警察”の誕生  飯室勝彦
第六章 メディア規制法案と反対声明などの主張  赤木孝次

【資料編】
メディア規制三法案に対する反対声明・見解・決議など
個人情報保護法案関連
人権擁護法案関連
青少年有害環境法案関連
個人情報保護法制に関する表現者の「マニフェスト」

 あとがき

はじめに・底の浅い「表現の自由」    飯室勝彦

メディアは公権力と市民に挟撃されていると言われるようになって久しい。
この十年来、メディアに対する攻撃は強まる一方である。政治権力と行政権力が共同し、あるいは一体となって表現・報道に対する介入をさまざまに計画し、現に行っている。
その介入は、一九六九年、公明党が田中角栄・自由民主党幹事長(当時・後に首相、故人)を通じて行った出版妨害のようなむき出しの権力を振るう露骨なスタイルではなく、「国民の代表」たる国会の権威を利用して法律を制定するという、ある意味でソフィスティケートされた方法である。考案された法制度には市民が権力アレルギーを起こさないよう糖衣もかかっている。
しかし、本来なら、表現・報道の自由が損なわれることで不利益を受ける市民が、メディアの陣営に参加するのではなく、権力による規制に賛成し、期待するというゆがんだ構図が生まれたのは、糖衣のせいだけではない。メディアの病理の深刻さと「表現の自由の底の浅さ」の端的な反映である。
底の浅さはメディアの現場や読者、視聴者だけに言えるのではない。二○○一年から始まったいわゆる報道被害に対する慰謝料高騰の裏では、憲法二一条(表現の自由の保障)の優越性など無視し、他の人権と等価において単純に結論を出す裁判官の「メディア悪玉観」や「表現取り締まり意識」が目立つ。底の浅さは「司法の場においてさえ」なのである。
いまや、メディアは挟撃どころか政治、行政、司法の三権力と市民に包囲されていると言っていい。慰謝料問題を執拗に国会で取り上げるのが公明党議員であることは、同党の支持母体である創価学会が一部メディアの批判、非難報道による名誉棄損問題を抱えているだけに、同党がやはり創価学会批判を封じ込めようとした約三十年前の言論・出版妨害事件を思い起こさせる。表現・言論の自由の軽さはあれから三十年余もたっても変わっていない。
各種の規制論、規制措置・制度が国民の眼によく見えないところで連動していることは間違いあるまい。それらは、表現・報道による影響の大きさに対する畏怖と、それだけに自由な表現を抑止したい欲求、という根っこを共有している。
国会で「裁判所が認める慰謝料額は低すぎる」と追及され、最高裁事務総局幹部が引き上げを誘導するかのような迎合的な答弁をするのを見れば、「司法の独立」「裁判官の独立」の底の浅さも痛感する。憲法が施行されて間もなくのころ、介 入をもくろんだ政治と鋭く対決した当時の裁判官たちの矜持はいずこへ、である。
このような状況の中で、二○○二年の通常国会を、メディアを攻撃する側は期待しながら、規制をはね返そうとする側は懸念しながら迎えた。表現・報道の自由、さらにはその前提となる取材の自由にかかわる法案が大きな焦点となったからだ。
前年からの継続審議とされていた個人情報保護法案は、この国会で本格審議に入ることが予想された。メディアも対象とする新しい人権救済機関たる「人権委員会」を設けるための人権擁護法案も上程された。人権擁護推進審議会の審議段階から大きな議論を呼び、人権擁護に熱意を燃やす人たちの間でもあり方をめぐって激しい激論のあった曰く付きの法案だが、「人権救済」の名の前には、報道・出版関係者の「表現・報道の自由」を守るための反対も押し切られ、行政によるメディア規制という図式が法案に貫かれた。
「青少年の非行、犯罪はテレビや漫画、雑誌などのせいだ」とあまり実証性のない主張を繰り返してきた自民党議員たちは、あらゆる表現行為に監督官庁をつくって管理する青少年有害社会環境対策基本法案の準備を着々進め、国会提出を狙っていた。
これらの動きは、プライバシーその他の人権についての市民意識の高まりを反映している反面、報道を管理下に置きたい政治家や行政当局者の思惑が密接に絡んでいる。国民の目や耳をふさぐことになりかねないのに、一般の国民はもちろん、メディアの内部にいる人間でさえ危機感をあまり抱いていない。
そうした「表現の自由の危機」を多くの人に理解してもらって打破しようと、この本は書かれた。それにはまず“敵”を知らなければならない。一連の法案を一読して分かるのは、多くの共通点があり、決してそれぞれが単独に導き出されたのではない、ということである。共通の命題として、メディアを牽制し、あるいは管理下において自己に不都合な報道を封じよう、との公権力や政治勢力の意図が強く感じ取れる。
詳細な各論は本文に譲るが、共通点を田島泰彦上智大教授の論考なども借りて簡単に整理すると次のようになる。
第一に、人権擁護、プライバシー尊重、青少年健全育成など、それ自体は決して否定できない価値を掲げ、メディアに対する市民的批判を背景にして規制しようとしていることである。かつての抽象的な「国益」「社会益」から、「市民的価値」へ規制根拠を転換したように見せかけている。
第二は、このため「官」はむき出 オの権力としてではなく、市民の要請を受けた形で市民的価値を守るための擁護者、保護者として登場している。
第三は、価値実現の手法は、メディアに対して強権をもって臨むのではなく、自主努力を促し、行政が行動に出る場合でも、事実の公表、勧告、警告、指導など、一見ソフトだが世俗的評価に敏感なメディアにとっては事実上の強制となる間接的方法を用いることとしている。
第四に、メディアの自主性を尊重するといいながらも基本計画、原則などの形で官の価値基準は厳に用意してあり、政治、行政の定める枠内での自主、ソフトであるに過ぎない。だが、市民にはそのからくりがはっきりとは見えない。
最後に、こうした枠組みを通してメディアの種類ごと、問題ごとに所管官庁を定め、これまでどの役所からも自由で独立だった新聞にまで行政の監督を及ぼして官のメディア支配を拡大、強化しようとしている。
これらの巧みな、しかし隠微な規制構造が、政治腐敗、疑惑、さらには自分と密接に関係する人物、団体などのさまざまなスキャンダルが伝えられ暴露されることを苦々しく思っている政府・連立与党の政治家たちと官僚の連携で用意されたものであることはあらためて言うまでもあるまい。
そうした人たちにとって好都合なのは、大事件報道におけるメディアの過熱、芸能・スポーツ情報などをめぐる一部メディアの暴走、名誉とプライバシー軽視である。国会で慰謝料引き上げを迫る議員が松本サリン事件の河野義行さんを題材にすることで分かるように、市民の批判を招く過剰取材と過剰報道が「衣の下の鎧」を隠す役割をしばしば果たしてしまっている。
その意味で、本当は最初に声を大にして指摘しなければならない「底の浅さ」は、報道される側の人権に対するメディア関係者の認識についてのそれである。そのことを自覚、自戒せずして「表現の自由」を叫んでも市民の共感は得られない。ただ、そのことはこの本の主題ではない。
一つだけ指摘すると、報道現場に与えられた条件を捨象し、「人権」という決めぜりふをスローガンに報道を批判する、プロパガンダふうのメディア悪玉論は不毛であるばかりか、結果的に法規制を後押しすることになる、ということである。情報公開の徹底、情報を持つ側の説明責任自覚、捜査の透明性向上、権力を握る人たちの批判を甘受する姿勢確立など、国民の知る権利を確立するために解決しなければならない課題はたくさんある。規制法案に反発するだけでなく、そうかといって委縮もせず、自省と自制を常に心がけながら積極的な攻めの報道で「知る権利の代行者」の役目を果たす。これがジャーナリズムのあるべき姿であり、ジャーナリズム批判のあるべき姿勢は、批判するだけでなく報道と人権の両立が可能になるよう諸課題の解決へ向かってメディアを支え、後押しすることではないか。

著者の五人は何らかの形でメディア、ジャーナリズムの仕事に関与しているが、関与する部門はそれぞれ異なる。執筆にあたって、それぞれの詳しい執筆構想を事前に打ち合わせたわけでも原稿を照らし合わせたわけでもない。各自の執筆内容は個人としての意見であり、他の著者はもとより所属先を代表するものではないことはもちろんである。
ただし、これまで述べてきたジャーナリズム、メディアの使命と責任について自覚し、メディアに対する強い愛情を感じながらも現状に対しては批判的な目を向けている、という共通の自負は互いに認め合っているつもりである。
(参考文献・田島泰彦著『人権か表現の自由か』日本評論社)


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