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文学の滅び方

文学の滅び方

吉田 和明 著
判型
四六判 上製 248ページ
定価
2300円+税
ISBN4-7684-6828-4

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かつて文学が輝いていた時代があった。しかし文学は今、それが活字で表現され、小説の形態をとっているから、かろうじてそれが文学だと認知されるにすぎない。〈個〉を屹立したいという願望の不可能性を自覚した時、文学は滅びた。文学滅亡の過程を考察する。

[著者紹介・編集担当者より]
日本の歴史上、文学というジャンルの作品が成立したのは明治期で昭和の後期で文学は死滅したという著者。近代的自己の屹立としての作品を文学として証明しようという血を吐くような論理展開は、脳味噌を熱くする。眠気が醒める一撃。(宮)




目次

はじめに 文学は滅びてしまったのではないか 

第一章 文学とは何か 
『古事記』『日本書紀』は文学か/文学であることの必要十分条件とは?

第二章 日本の近代文学の夜明け 
革命文学の不在/近代にふさわしい文体の創出/『小説神髄』と『小説総論』/鴎外
が『舞姫』で描こうとしたものは?/『浮雲』と『舞姫』における作者と主人公の関
係/『舞姫』が短編とならざるをえぬ訳/内面的自由の発見
二葉亭四迷 /坪内逍遙 /森鴎外 /北村透谷 
コラム1 明治二十年代以前の日本の「文学」状況 /コラム2 明治二十年代の
文壇 

第三章 日清戦争後の文学 
雑誌『文学界』/「深刻小説」と「観念小説」/右旋回したイデオローグたち/「個
人の自由」という牙城/「社会小説」と社会主義の隆盛/徳冨蘆花の「社会小説」
樋口一葉 /広津柳浪 /川上眉山 /泉鏡花 /内田魯庵 /高山樗牛
 /後藤宙外 /小栗風葉 /徳冨蘆花 

第四章 「社会主義小説」と「ゾライズムの小説」 
木下尚江の「社会主義小説」/ゾライズム風な小説群/内的必然性の欠如/日本近代
文学の成立を画する「境界」/藤村『破戒』の意義
木下尚江 /小杉天外 /永井荷風 /国木田独歩 
コラム1 エミール・ゾラの自然主義 

第五章 自然主義文学 
日露戦争の勝利によって/写実主義とゾライズム/『蒲団』の出現が与えた影響/『
生』における試み/〈自我の屹立〉におけるレベルの問題/生まれながらの自然主義
作家
田山花袋 /島崎藤村 /真山青果 /岩野 鳴 /正宗白鳥 /
徳田秋声 
コラム1 自然主義をめぐる用語整理の問題 /コラム2 自然主義に対する社
会的非難 

第六章 自然主義文学に飽きたらぬ人たち 
「大いなる文学」とは?/何のために描くのか/「大逆事件」へのそれぞれの反応
コラム1 木曜会と龍土会 

第七章 永井荷風と谷崎潤一郎  
耽美主義という新風/『スバル』創刊/病的な倒錯した世界/生まれながらの耽美主
義者
谷崎潤一郎 

第八章 「白樺」派の文学 
恵まれた条件によって/彼らの掲げた人道主義とは?/「白樺」派の人たちの誤謬/
変わろうとする時代のなかで
武者小路実篤 

あとがきにかえて なんら事態が変わったわけではないのに 

資料 差異が消失する文化のなかで 


 文学の滅び方
 はじめに 文学は滅びてしまったのではないか

 1980年代後半に、「吉本―埴谷論争」というものがあった。読者諸氏は覚えて
いるだろうか。吉本隆明が雑誌『アンアン』に、コム・デ・ギャルソンのファッショ
ンモデルとして登場した……、それを埴谷雄高が批判したことではじまった、あのち
っとも議論のみ合わなかった論争を(注1)。
 吉本はそこで、〈普通の女の子が、『アンアン』を見て目を輝かせることは、いい
ことなんだ〉、〈そうなる地盤をつくった高度成長というものは、そのものとして「
悪」ではないんだ〉ということを主張していた。
 世界史の動きは、確かに吉本の主張の正しさを裏付けているかのように見える。す
でに世界中が、資本主義一色に塗りつぶされてしまったかのようだ。社会主義なんか
よりも、大量生産・大量消費社会としてある資本主義のほうがすばらしい。人々は、
そう思うようになった。そして、社会主義を捨てた……。ベルリンの壁が崩壊し、ソ
連もまた崩壊して、東西冷戦構造に終止符が打たれた。あれからすでに十年以上の「
月日」が流れている。吉本のいうことは理解できるし、社会主義に比べたら、さまざ
まな問題を抱えているとしても今の資本主義のほうがいい。僕も、そう思う。
 しかし、何か割り切れないものが残る……。

 実は、僕は今、日本の文学について考えはじめようとしていたのだ。よく、友だち
と冗談に、「昔、日本にも文学なんていうものがあったね。日本で文学が滅びてから
、すでに久しいね」なんて語りあう。いや、冗談にではない。冗談を装いつつ本気に
だ。「今、在るのは、いくら華やかだって、文学なんて代物じゃないよね」と。そう
語りあうときの割り切れなさについて、想いを巡らせていたのだ。「吉本―埴谷論争
」を思い起こしたりしたのは、きっとそのせいだ。「……文学なんて代物じゃないよ
ね」と語りあうときの割り切れなさは、文学というものに対する僕(たち)の過剰な
思い入れに起因しているに違いない。〈社会主義に比べたら、今の資本主義のほうが
いい〉といわざるをえぬときの割り切れなさについても、同じことがいえるだろう。
 かつて、僕(たち)は社会主義に対しても、ある過剰な思い入れを抱いていた、そ
のことは間違いないのだから……。つまり、それら両者に対する「過剰な」思い入れ
が、すなわち愛惜の思いが、どこかで混線したのだろう。
 いや、そうではない。僕は、おそらく、現在に至る社会主義の運命と文学の運命を
、どこかでパラレルなものと見立てているのだ。それ故に……。

 たとえば、今、こんな文学史の一コマを例に挙げてもいいだろう。
 かつて、昭和三十一年度版『経済白書』は、すでに戦前のGNPを上回る水準にま
で経済は復興したとして、〈戦後は終わった、もう戦後ではない〉と、高らかに宣言
した。それが、朝鮮戦争に端を発したものであったことは、そこでは忘れさられた。
人々はめぐってきたこの世の春を謳歌しはじめた。第二次世界大戦での惨禍を忘れた
い、そうした心性が人々の間に働いていたのかもしれない。
 そして、その年、文学の世界においても、それを反映、追認するかのように、石原
慎太郎『太陽の季節』が芥川賞を受賞した。
 高度成長によって折から拡大しはじめたジャーナリズムが、石原を迎えた。文壇を
超えたジャーナリズムがだ。人々とともに、石原ははしゃいだ。文壇人、そして当時
の良識的知識人の苦々しい思いをよそに……。

 あのとき、文学は結局、時代や歴史の反映、追認としてあることはできたとしても
、決して時代や歴史をリードすることのできるものではないということが、証明され
てしまったのではなかったか。
 そして、そうした思いが、僕には二重写しになる。つまり、「吉本―埴谷論争」に
おける、こうした世界史レベルでの決着(つまり〈社会主義に比べたら、今の資本主
義のほうがいい〉といわざるをえぬ状況の成立)は、思想は時代や歴史の反映、追認
としてはありえても、時代や歴史をリードするものとしてはありえない、そのことの
まぎれもない証明を意味する事件だったのではないか、と。僕は決して、そうは思い
たくはないのだが……。
 時代や歴史に対する文学や思想の無意味性……。ビジョンなどという言葉の無効性
……。むろん、文学は今、思想よりも、もっとひどい状態にあるように思えるのだ。
 こんなふうにいうと、〈文学を思想と一緒にすることはできないだろう!〉という
声が、聞こえてきそうな気がする。〈未来へのビジョンを示すことができなかろうが
、そして現実の反映、追認にしかすぎなかろうが、もとよりそれが文学に足るもので
はないという根拠にはならないだろう!〉と。
 確かに、そうかもしれない。しかし、そうであるのなら、文学とはそもそも何なの
か。文学の存在意義はどこにあるのか。やはり、思想と同じように、時代や歴史への
洞察に基づく確かな未来像や、思想の深淵をくぐり抜けたところで提示される世界像
、そして存在の深みへの洞察に基づく人間像を、文学的なやり方で僕たちに提示する
、そこにこそ、文学は文学としての存在意義を有していたのではないのか。
 もとより、文学作品というものが、作者の現実に対する否定の精神をその発条とし
て成立するものであるとするならば、このことは必然であるように思える。少なくと
も作者と世界との抜き差しならぬ関係の提示物として、文学作品があるとするならば
だ。

 ここでは、主に明治二十年前後から大正の中頃まで、すなわち日本の近代文学の誕
生から成熟に至るまでの過程をたどることによって、そこに種々提出されているこの
〈文学の存在意義〉の問題について、考えてみたい。日本の近代文学とは、そもそも
何であり、何であろうとしたものだったのだろう?
 さて、しかし、その前にやっておかなければならないことがある……。

(注1) 詳しくは、拙著フォー・ビギナーズ『吉本隆明』を参照されたい。


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