現代書館

WEBマガジン 11/05/19


第二十六回 被災地に立って…

森達也


斎藤美奈子さま

被災地と原発周辺を撮影(取材)して戻ってきてから一週間が過ぎて、今なら書けるかもしれないという気分にやっとなりつつあります。
地震発生の3月11日、僕は六本木にいました。テレビ・ドキュメンタリー企画の審査会に参加していたのだけど、結局のところ審査会は打ち切られて、その後は六本木の居酒屋で、夕刻からビールを飲んでいました。なぜなら電車がまったく動いていない。帰ろうにも帰れない。六本木には珍しい正当な居酒屋で、わいわいとディレクターやプロデューサーたちと談笑しながら、飲みものはいつのまにかビールからホッピーに替わり、ウドの酢みそ和えやメンチカツ、刺身盛り合わせなどを食べていました。
この日は結局家に戻れなかった。半ば泥酔状態で友人宅に泊まり、寝る前にテレビのスイッチを入れて、釜石の空撮映像を見ました。漆黒の闇が燃えていた。このときに初めて、とんでもない事態が起きているのだと気づきました。
僕がビールを飲んだりウド酢みそ和えを食べたりゲラゲラと笑ったりしていたそのとき、たった数百キロしか離れていない場所で、これほどに凄まじい事態が起きていた。多くの人が津波に呑まれ、流され、親や子や夫や妻の名を呼びながら、悶えながら、死んでいった。
翌日に家に戻り、それからほぼ二週間、家からほとんど出ずにテレビを見続けました。早朝から深夜まで、瓦礫や遺族たちの苦悶や哀しみを目にしながら、ちょっと鬱になりかけていた。
だから(という接続詞も変だけど)現地に行きました。ワゴンに乗って。メンバーはイラクのドキュメンタリー映画を作った綿井健陽と、「A」や「A2」のプロデューサーである安岡卓治と、二年前に「花と兵隊」というドキュメンタリー映画を発表した松林要樹の4名。要するに全員、インディーズのドキュメンタリー映画関係者。それぞれカメラを手に(十年以上撮っていなかった僕は、デジタルカメラを借りました)、ほぼ一週間、陸前高田や石巻などの被災地と、原発周辺を回ってきました。
原発では直線距離で8キロの地点に近づいたところで、ワゴンの左前輪が突然パンク。パンクというよりもバースト。JAFを呼んだとしても来てくれないだろうし、そもそも携帯は繋がらない。おまけに雨まで降ってきた。
雨に濡れることは絶対に避けなくてはならないけれど、立ち往生しているわけにもゆかず、四人で30分近く、車外でタイヤ交換作業をしました。たぶん相当に被曝したと思う。
石巻では、全校児童のほとんどが津波に呑まれた大川小学校を訪ね、子どもたちを探す母親たちに同行しました。
このとき、僕も含めて現場にいた多くの記者やカメラマンのほとんどは、たぶん立ち尽くしていたと思います。遺族たちに何を訊けばよいのか、どんな言葉を発するべきなのか、それがわからない。報道はそもそも加害性があります。でも今回は、あまりに被害の規模が圧倒的で、だからこそ自分たちの加害性を強く感じました。
ここ数日、テレビでは、「日本は強い国」、「今、わたしにできること」、「がんばれニッポン」などのフレーズが、少しずつ増え始めています。
基本的にはその通りだと思います。負けるわけにはゆかないし、頑張ってほしいとも思う。だから大きな声で異を唱えるつもりはない。でも違和感がある。とても微妙だけど、決定的な違和感です。
被災地は圧倒的な瓦礫の量でした。でも、正確にはただの瓦礫ではない。つい数日前までは、多くの家族が暮らしていた家の建材、日用品、電化製品、カバンや靴などの日用品。それらが泥にまみれながら堆積し、多くの車が無惨にひしゃげながら、樹木のありえない高さに引っかかっている。まるでシュールレアリズムの絵画の世界。でも紛れもない現実です。そしてこの瓦礫と泥の下には、今もまだ多くの遺体が埋もれている。
そこにはかつてあった町がない。家がない。泥と瓦礫。足もとに転がるアルバム。写真の一枚一枚に残された一人ひとりの笑顔。その下に埋もれている多くの遺体。
 圧倒的な喪失と不条理です。そして圧倒的な無慈悲。そして何よりも、圧倒的な無力感。今はまだ、「負けるな」とか「頑張れ」とかの言葉を僕は使えない。少なくとも子どもの遺体を探し続ける母親に、こんな言葉は口が裂けても言えない。
同時に考えます。人の命を量で語るべきではない。交通事故で一人娘を失った父親と母親の慟哭は、今回の津波で一人娘を失った父親と母親の慟哭と変わらない。
そこに差があるはずはない。
でも現場に行き、圧倒的な質と量に僕は打ちのめされました。命に対して、今まであまりに不感症だった自分に気がつきました。
東日本大地震による死者数は、現時点で二万人を超えています。最終的には三万人を超えるだろうと予測する人もいる。とにかく圧倒的な規模です。でも規模や量についてなら、もっと悲惨な事例はいくらでもある。たとえば津波に言及するならば、2004年のスマトラ島沖地震と津波で犠牲になった死者数は22万人。でも今だから思うけれど、このとき僕は、どの程度の痛みを感じていただろう。結局は他人事だった。結局は実感できていなかった。
間違いなく、今後の日本は変わります。経済への打撃は大きいし、エネルギー政策も変換を余儀なくされる。産業構造も変わるかもしれない。そして何よりも、(まさしくオウム以降と同様に)意識が変わると思います。
同行していた綿井さんは、被災地では「自分が見たどの空爆でもこれほどの破壊はできない」と吐息をつき、原発周辺では、「銃弾や爆撃よりも放射能のほうがはるかに怖い」とつぶやいていました。





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