現代書館

WEBマガジン 26/09/03切通理作


第11回 「反時代性」としての特撮

 ちょうど、私が今回書かせて頂く原稿と、神谷さんの書かれた回の間で起きた出来事として、2026年7月20日、玩具工業デザイナー・村上克司さんのご逝去があります。
 巨大ロボットの玩具に、手触りとしての金属感を導入したマジンガーZの玩具から始まる「超合金」の生みの親である村上さん。玩具メーカー側として、『勇者ライディーン』(1975)以降、数々のロボットアニメに企画段階から共同開発として関わっていましたが、特撮番組においても『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975〜77)や『大鉄人17』(77)などで、コスチュームデザインから搭乗メカニック、巨大ロボットまで、商品イメージと融合した作品世界の設計を持ち込んだ人物です。
そして特撮における新ヒーロー誕生において、特段インパクトがあったのは、なんといっても、メタルヒーローの元祖・ギャバンだったと思います。
 『宇宙刑事ギャバン』(1982〜83)は、ウルトラマンや仮面ライダーシリーズが途絶え、戦隊ものが命脈を繋いでいた日本特撮番組において、まさに彗星のごとく登場した単体ヒーローでした。
 全身メタリックなボディは、周囲を反射してしまうため、撮影が大変だったといいます。アップ用とアクション用にスーツが使い分けられていたとはいえ、前者が強く刷り込まれるため、後者の場面にもそのキラキラした印象が持続していたと思います。
そのボディラインは甲冑のようにも見えながら、あくまでスマートで、デジタルな光の線が交叉しているようにも思えます。光学合成によって表現された、光の粒子を身にまとう、0.5秒で「蒸着」を完了する毎回の決めカットがあっての、イメージの広がりも未来感の手助けとなっているのでしょう。
 そして、工業製品機能から見た「マスク」としても、ヒーロー番組の主役としての「顔」としても、どちらとしても成立する頭部が画期的だったと思います。目鼻立ちがはっきりした、キャラクター性を前面に押し出す「顔」よりも、未来的に感じられたことは忘れられません。宇宙刑事3部作を土台に、やがて後続していく「メタルヒーロー」シリーズの狼煙を告げるインパクトを持ち得ていました。
 しかし、そのデザインの意匠と画期性による、ヒーローイメージの「アップデート」感のみに注目してしまうと、見失われるものがあります。

■仮面の裏にある「情感」
 メイン脚本の上原正三さんは、ギャバンの外見がメタリックシルバーで、ともすれば「冷たい」印象を持ってしまわれることに気遣って、変身(蒸着)する人間のドラマはできるだけ温もりを感じられるものにしようと思った……と、私のインタビューに答えた時に教えてくれました。
 「すごく見た目がフルメタル……見たこともないピカピカの雰囲気ですよね。キャラクターとしては非常に斬新なものがある。僕はウルトラマンから来て、仮面ライダーを見た時のような、また違う意味での斬新さを感じたんです。だからこれはヘタするとロボットものというか、宇宙刑事自体がロボットのような動きになってしまうと思いました。『蒸着』と叫ぶ変身シーンも、なんか雪がまつわりついちゃうような冷え冷えする感じっていうのがありますよね。これはかなり人間っぽくしないと。幸い主演は『バトルフィーバー』『デンジマン』もレギュラーだった大葉健二で親しみが湧くキャラクターだし、また千葉真一さんも出てくれると約束しくれていたんで生き別れた父親役にして、メタルものを表に出しながら、裏の部分では親子の情、非常に涙っぽいっていうのはおかしいけれど、情感溢れるストーリーっていうものを組み込んでいったんです。だからギャバンっていうのはまた生きたんじゃないかと思うんですよ。串田アキラさんの主題歌も、男臭さっていうか、あのちぎって投げるような歌い方が良かったよね」(2004年刊、『東映ヒーローMAX』Vol.10「仮面の世界?MASKER WORLD?」第9回より、以下同)
 ギャバンになる一条寺烈という主人公の、二枚目半的な親しみやすさと、生き別れになった父を探し求める、古典的と言ってもいい情愛を軸とする展開は、まさにヒーローを「血の通った存在」にするためのものだったのです。
すでに戦隊ものである『バトルフィーバーJ』のバトルケニアや『電子戦隊デンジマン』のデンジブルーで、メンバーの中でも三枚目的な役割を担っていた大葉健二さんが、幼い視聴者にとっても顔馴染みの「お兄さん」であったことも、親しみやすさに拍車をかけていたことでしょう。一方で、大葉さんはJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に所属しており、『人造人間キカイダー』では、キカイダーの中に入っていた人でもあります。『ギャバン』でも、潜入捜査をするシーン等での、ぴょーんと飛び上がっては物陰に隠れるダンシングな跳躍性、そしてキレッキレの戦闘ポーズに入る時の緊張感。
身体能力の高さとコミカル味の緩急。その底からじわっとにじみ出る優しさは「頼りがいのあるお兄さん」像を具現化し、大葉さんの演じるヒーロー像の集大成ともなったように思えます。
 続く、宇宙刑事シリーズ2作目『宇宙刑事シャリバン』で、主人公・伊賀電を演じる渡洋史さんの容貌に「冷たさ」を感じた上原さんは、逆にコンバットスーツを蒸着してからは、「赤」を基調にした熱血のイメージを押し出した・・・・・・と言っていました。
 キャラクターとストーリーテーリングの運び方の計算が違うと、視聴者に伝わらないというのは、上原さんが気を付けたところです。
「赤っていうのは冷たくないんだよね。役者さんは冷たい雰囲気の人でも変身すれば赤くなる。シャリバンの渡洋史くんは大葉健二にくらべるとちょっとキャラクターが冷たい雰囲気を持っているんですよ。で、これがぱっと変身したときにギャバンのようなシルバーメタルだと、それは本当に冷え冷えしちゃって。それがさらに宇宙を旅する話になっちゃうとなかなか体温が伝わらないよね」

■「反時代性」ということ
前回、神谷さんの『ギャバン』についての文を読んで、思い出した感覚があります。
 それは「反時代性」です。
 同時代の気分にそぐわないものを、特撮作品に見出す感覚。
 ゴジラやウルトラマンが生み出され、次々と新作が送り出されていった時代は、主に1960〜70年代でした。80年代は休眠状態にあったり、リバイバルに押されて、新作が作られてもなかなか定着しない状況にありました。それらの「黄金時代」は過去にあり、復活が待望されること自体、「反時代的」といえたと思います。
 と同時に、80年代にヒーロー番組を押し出すということ自体、反時代性があったと思います。
 上原正三さんは、こういう時代だからこそ、命がけで誰かを守るという行為の尊さをわかってほしいと、放映当時のインタビューに答えています。
「まあ、こういう事いうと少し格好つけたいい方だけど、今の社会の自分だけ良ければいい、他人は必要ないみたいな風潮。それは学校でもどこでもそうだと思うんだけれど……何かこういうるおいの無い時代というかね。そういう時代の中で、自分の事をかえり見ずにひたすらに他人への優しさ、思いやりを持って生きている、それがギャバンでありシャリバンだと思うんです。常に他人の事を考えている――そういう価値感、みたいな物を、もう少しメッセージしたいなと思っているわけですよ。だから何故に今、仔犬一匹の為にでも命を賭けて戦う、みたいな話をあえてやっている所がある。そういう辺りをもっと見て欲しいですね。僕にとってのヒーロー像はそういう事ではウルトラマンからずっと変っていないと思いますよ」(「宇宙船」1984年冬号 Vol.17『特集 特撮最前線を歩む男・上原正三』より)
 当時は、薄く、軽いものがよしとされ、何かへの使命感とか、正義とか、そういうもの自体が流行らなくなっていた時代でした。
 そこへ、上原さんは、「誰かを守る」というストレートな行動原理をぶつけています。
 まさにそれは「ヒーローの本質」だと思います。
 時には自分の損得を置いても、誰かのために戦うこと。それは個人レベルでの豊かさや、他人と比べての優劣を尺度とする価値観からは、真逆に感じられます。
 主題歌や副主題歌、劇中歌を歌った串田アキラさんによる、どこか哀愁を帯びた熱いボーカルは、宇宙刑事のクールでメタリックな印象に寄せたものというより、その鎧に覆われた熱い魂を謳いあげているように思えました。
 私は『ギャバン』主題歌の2番にある、悪い奴らは天使の顔して、心で爪を研いでるものだけれど、俺もお前も、名もない花を踏みつけられない男になるんだ……というくだりが好きです。まさに、見せかけの優しさに惑わされず、大切なものを救い出せ、そして「お前ならできるはずだ」と励まされている気持ちになれます。
 『シャリバン』のエンディング主題歌の歌い出しにある、強い奴ほど笑顔は優しい……というフレーズにもグッと掴まれます。曲名はまさに「強さは愛だ」でした。
 これらのフレーズは、他の誰にも見えてないかもしれないけれど、俺とお前にだけは、大切なものがわかっている、という共闘意識を掻き立ててくれました。
70年代のヒーロー番組主題歌が、悪の組織の名前を挙げ、とにかく倒せと煽るのとも、60年代のヒーロー番組主題歌が、宇宙や未来への夢や希望を、時代と共にあるものとして謳い上げるのとも、明確に違っていたと思います。
 それは、いったい僕たちが何と戦っているのかが、表面からは見えにくくなってきたという同時代意識とも、無関係なものではなかった気がします。ヒーローの戦いが、心の中にまで踏み込むものになってきつつあったのではないでしょうか。

■「時代遅れ」に根拠を持つ
 押井守監督が、作家的存在として評価されるきっかけとなった劇場アニメに『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)があります。
 これは、文化祭の前日の夜をいつまでも繰り返すという、「ループもの」の走りともいうべき内容ですが、中で、初代『ゴジラ』の上映を主人公・友引あたるたち生徒が見るくだりがあります。平田昭彦演じる「芹沢博士」が愛する女性への思いを抱きながら、命を犠牲にして、自らの発明したオキシジョン・デストロイヤーを使い、ゴジラと共に海に没していくラストに、メンバーの「メガネ」が感情移入して、号泣する一方、あたるは退屈して寝息を立てています。
 このメガネという人物は、ヒロインのラムに対し、一方的に片思いをしているという役回りでしたが、加えて、高校生らしからぬ難解な言葉遣いで演説をする、まるで(当時から一時代前であった)学生運動華やかりし頃の、アジテーターのパロディのようなキャラクター付けがされていました。
 つまり、ヒロインに報われぬ恋をしている「時代遅れ」の存在であるということが、この「メガネ」と「芹沢博士」の共通点だったのです。芹沢博士は、戦後9年が経っても、かつて最終兵器を生み出すことになった実験の過程で起きた事故で顔に負った傷を抱えながら、明るく楽しい青春を謳歌することができなかった存在でした。
 ちなみに、バブル前夜の当時は「恋愛」も、薄く軽く、レジャーのようにするものであり、そこに深刻なドラマを絡めるということはもはや流行ではありませんでした。
スキーブームを巻き起こした、バブル期青春映画の代表であり象徴である『私をスキーに連れてって』(1987)のクライマックスで、三上博史演じる男性主人公が、ヒロインを愛するが故、万座から志賀まで車で5時間かけて行く場面があります。ここに対して、監督の馬場康夫は「暗くなる」と言って猛反対し、感情移入の回路として残したい脚本家・一色伸幸との間で議論になったということが雑誌に載っていました(「シナリオ」1989年7月号、一色伸幸インタビューより)。
私はそれを読んで、びっくりしました。主人公がヒロインの居る場所に1人で車を走らせるというだけで、もう「暗い」ということになり、削除候補になってしまうのか?……と(実際の映像ではそこを残しながら、音楽とヘッドライトの光に彩られた、おしゃれな場面処理になっています)。

■ゴジラが壊すものとは
 最近Netflixでリメイクされた『ガス人間』も、元の『ガス人間第一号』(1960)では悲恋ものでした。日本舞踊の家元・春日藤千代(八千草薫)を愛する水野(土屋嘉男)は名もない図書館員。滅びゆく春日流を守ろうとする藤千代を支援するため、水野は化学実験の犠牲者としてガス人間になってしまったことを逆手にとって、その特殊能力を用い、殺人も辞さない稀代の犯罪者となります。
 自らは匿名の存在として時代に埋没している男が、廃れゆく文化と運命を共にする美女に思い入れて、やがては「心中」の道を選ぶ。
 これは同じ本多猪四郎監督、円谷英二特技監督による初代『ゴジラ』の芹沢博士が、戦争が終わっても、明るく楽しい青春を謳歌することができなかったことと、核実験で太古の眠りを脅かされた怪獣ゴジラが、同質の問題として並び立っていたことを想起させます(少なくとも、私にはそう思えました)。

本当なら、私が自分の一押し特撮を挙げさせていただく番だったのに、神谷さんの「反時代性」という言葉に、触発されたことを今回書きました。
自分から提案しておいて、やるべきことが先送りになってしまって申し訳ありませんが、1回、もしこの切り口でやり取りさせて頂ければ幸いです。

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