現代書館

WEBマガジン 11/07/04


第二十八回 共有してしまった後ろめたさ

森達也



斎藤美奈子さま



 震災から2カ月あまりが経ちました。
・・・と書きながら、前回の美奈子さまからのメールが「震災から1カ月あまりが経ちました」で始まっているということに気づき、ならば1カ月も返信しなかったのかと少しばかり焦っています。

 何だか震災以降、時間が経つのがとても早い。

 加齢すればするほど時間が早く進むように感じる理由は、人はこれまで体験してきた時間の集積と比較しながら時間の速度を実感するからだとの説があるけれど、震災前と後では、何かの密度がきっと変わったのだろうな。
 ……一応は言葉を職業にする立場としては、この「何か」を「何か」などと書かず、「何なのか」を言語化すべきなのだけど、この「何か」が難しい。とはいえ、「がんばれニッポン」とか「言葉を失います」みたいな安易なフレーズに逃げたくないし。難しいですね。


 僕が務める明治大学は、震災の影響を考慮して、新年度の授業をほぼ1カ月遅らせました。その授業初日、ひとりの女子大生から、「震災報道一色だったテレビは、たった1カ月強しか過ぎていないのに、なぜあれほどに節操なくバラエティやグルメ番組を復活できるのでしょうか。観ながらほとほとあきれます」との質問がありました。多くの学生たちが彼女のこの質問に頷いていたから、おそらく同じような違和感を共有しているのだと思います。
 「確かに節操がなさすぎるとも思うけれど、でも避難所にいる家族、特に幼い子どもなどがいる場合は、テレビ各局がいつまでも震災報道を続けていることをあまり歓迎しないのでは?」
そう問い返すと、「理屈はたしかにそうですね。でも……」と彼女は首を傾げました。
 「でもそうは思っても、やっぱりこの転換の早さには、本当にそれでよいのかと不安になります」
 不安になるとの彼女の言葉を聞きながら、ああそういうことか、と気がつきました。テレビは民意の投影です。なぜテレビはあんな下らない番組ばかりを放送するのだとの批判をよく耳にするけれど、その答えは「多くの人が見るから」です。もし彼女が言うように、多くの人が今のテレビに対して不快感や嫌悪感を抱いているのなら(当然多くの人がチャンネルを変えたりテレビを消したりするだろうから)、テレビはその方向を修正します。それが変わらないということは、多くの人は違和感を持ちながらも、チャンネルを変えたりテレビを消したりしてはいないということです。
 つまり彼女が抱くテレビへの違和感は、テレビ画面を眺める自分への違和感でもある。
テレビが自分の投影であるからこそ、バラエティやグルメ番組を眺めながら、こんなにあっさりと震災を忘れてしまっていいのだろうかとの煩悶が湧いてくる。何となく後ろめたくなる。もじもじと居心地が悪くなる。
 数日前、津波に呑まれながら助かった男性の証言を新聞で読みました。年老いた母親を背負いながら一瞬にして波に呑まれた彼は、たまたま浮いていた流木に掴まって奇跡的に助かりました。そして今は、なぜ自分は助かり、一緒にいた母親は助からなかったのかと苦悩しています。自分を責めています。生き残ったことへの後ろめたさで煩悶しています(余談だけど、英語圏ではこうした状況の人を「SURVIVOR」と表現するけれど、日本語ではうまく訳せないようです。確かに「生存者」では何か違う)。
 実際に家族を失った人の慟哭や無念の思いとは比較にならないけれど、今回は震災の報道に接しながら日本中の人たちが、同じような後ろめたさを抱きました。自分が生き残った意味と理由を考えました。でも考えたって答えなどない。生と死とは隣り合わせ。数ミリや数秒の違いで分離されてしまう。そこには必然など欠片もない。世界はこれほどに不条理で、そしてそれは実のところ今始まったことではないのだと気づいてしまった。だからこそ今、震災の記憶などまったくないかのように騒ぐテレビを見ながら、これでよいのかと煩悶する。ともすれば記憶が薄れてしまう自分に、以前と変わらない日常に戻っている自分に、こんな冷淡でよいのだろうかと不安になる。
 前回のメールで僕は、震災後しばらくテレビを朝から深夜まで見続けていたために疑似PTSDのような状態になってしまったと書いたけれど、おそらくは多くの人が、同じような状態に陥ったのだから、その後遺症は当然あるはずです。
 もう一回書くけれど、あくまでも疑似の感覚です。でも疑似だからこそ質が悪いとも言える。これから日本がどう変わるかと論議するとき、この「共有してしまった後ろめたさ的な感覚」は、決して看過できないような気がします。95年のときは、阪神淡路大震災でやはり生じかけたこの感覚が、オウムという絶対悪の出現によって一気に回路を見つけ、徹底して悪を殲滅するという意識になだれ込みました。
 だからやっぱり今回は、ビン・ラディンについても書きたい。この殺戮が国際法に適合しているかどうかの論議以前に、そもそもなぜ国内の多くのメディア(つまり民意のマジョリティ)は、これほどにこの殺戮に対して無関心なのだろう。
 丸腰で家族とともにいた彼を米特殊部隊が射殺したことで、9・11の動機や背景を首謀者から直接の言葉で聞く機会を、国際社会は永遠に失いました。彼をジェロニモというコードネームで呼んでいたという事実だけでも、ホワイトハウスの高官たちはアメリカの歴史を何も学んでいなかったことがよくわかる。
 いずれにせよ、オバマには本当にがっかりです。CNNのインタビューで殺戮に正当性があったのかと訊かれたとき、正義を盾にしながら「あれほど多くの人を殺した男を殺すことになぜ理由が必要なのか」というようなことを言っていた。ブッシュが特殊メイクでオバマになったのかと思いたくなる。

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