現代書館

WEBマガジン 12/04/25


第三十七回 「311」と私小説

斎藤美奈子

森達也さま

 先日は猛暑のバンコクからのご報告ありがとうございました。
返信おそくなりました。いいわけをいたしますと、おそくなった理由のひとつは「311」を見てからレスしようと思っていたからです。で、やっと時間をみつけて観ることはできたのですが、どんな感想を書いたらいいか迷ってて、書いては消し書いては消ししているうちに、今日にずれ込んでしまいました。ごめんなさい。

 率直な感想をまずいえば、おもしろかったです、ふつうに(「ふつうに」という表現は貴君はお嫌いかもしれないけど、つい付けたくなるのはなぜだろう)。なにはともあれ、震災2週間後の津波の爪痕を大画面で見るのは、それ自体がちょっと圧倒される体験で、編集されたテレビニュース画面とはやはりちがいますね。冒頭に出てくる青年や、「手が回らないのではなく回さない」と語る医
師、「早く遺体をみつけてあげたい」と語る母たちの声もリアルでした。それだけでも劇場公開に踏み切った意味はあったのではないでしょうか。音楽なし。ナレーションなし。しかし撮影者の声は消さない。「作品化」されることを拒む編集も新鮮に思えました。

 ただ、おっしゃっるように、賛否両論、意見が両極端に分かれる作品だろうとは思った。私はたまたま貴君ご出演のNHKラジオ「ラジオ深夜便」を聞き(よくチェックしてるでしょ)、作品の意図をあらかじめ知った上で鑑賞することになったので、それなりに納得しましたが、何の情報も持たずにいきなり見たら戸惑ったかもしれない。
 
 この作品は見る人に一定以上のリテラシーを要求します。メディア・リテラシーじゃなく、もっとシンプルな映像的リテラシーですね。ただ、すべてのオーディエンスに「あんたもそういうリテラシーは持たなきゃダメなんだ」と要求することはできない。「サバイバーズ・ギルト(生き残った者の罪の意識)」や「うしろめたさ」というテーマは非常によくわかります。わかりますが、「311」の映像と、そうしたテーマとの間には、少し距離がある。メディアが必然的にもってしまう加害者性の問題も、メディア関係者には切実ですが、そうでない人にとっては「業界の内輪話」かもしれない。
 
 その意味で「311」はけっして「親切」な作品とはいえないし(そこはもちろん承知の上なのだと思いますけど)、「上映のしっぱなし」にもむかない。なんらかの解説なり説明があって、はじめて理解できるのではないかと思います。『311を撮る』とう書籍が出版されたり、貴君が映画とセットになったトークショーのために、全国を(いや世界中を!)飛び歩いているのは、そういうわけかと勝手に解釈したしだいです。

 以下、連想ゲーム的に思いついたことを書きます。

●サバイバーズ・ギルト(生き残った者の罪の意識)について
 この感覚は、戦後の日本人にとっては、じつは非常に近しい感覚だったのではないかと思います。トラウマ(とあえて申しますが)の源は、もちろん先の戦争です。敗戦後の手記なんかを読むと、この感覚にとらわれていた人がどれほど多かったかを知って、驚きます。自分の家族が戦死したとか空襲で亡くなったといった直接的な経験とはひとまず関係なく、「自分だけが生き残ってしまった」という感覚を、みんなもってるんだよね。戦争体験者は、戦後10年、20年たってもこの感覚をひきずっていたのかもしれない。
 話はちょっと飛びますが、日本の戦後の国語教科書って、救いようのない悲劇というか、死を取り込んだ作品が異様に多いのです。新美南吉の「ごんぎつね」から、漱石の「こころ」にいたるまで。なぜだかわからなかったのだけど、これらの定番教材には「生き残った者の贖罪感」が反映されているという説を読んで、妙に納得したことがある。
 
 311に際して、私たちが(擬似的にであれ)直面したのも、この感覚だったように思う。東北の被災者はあんなに目に遭遇ったのに、多くの人が死んだのに、自分はこんなにぬくぬくしていて……という感覚です。森達也式にいえば〈大切なことはセンス・オブ・ギルトだ。罪の意識。後ろめたさ。これを引きずることだ。引きずりながら前に進むことだ」(『311を撮る』)ってことになるし、その意見には私も基本的には賛同します。
 
 ただ、震災直後の「何かしなくちゃいけないんじゃないか」という焦りや「せめて募金だけでも」みたいな雰囲気は、みんな「罪の意識」から来てたんじゃないかと思うんだ。それが結果的に「絆」「がんばろう日本」といった陳腐なスローガンに堕ちてしまったとしても。
 「引きずるべきもの」が、ほんとに「罪の意識」(というウェットな感情?)でいいのかどうか、私にはまだ答えが出せません。

●「うしろめたさ」問題のつづき
 といいつつも、何かを「引きずった」ほうがいいのだとは思う。
震災一周年記念で、各社から「識者の文集」みたいな本が何冊も出版されたでしょ(ちなみに、これらにも「うしろめたさ」について書いている人が大勢います)。こういう企画自体、安易といえば安易なのですが、それらを読んで思うのは「東北とのかかわりを見つけた人」と「見つけていない人」の乖離がすごく大きいってこと。
 ありていにいっちゃうと、「私は東北でこんな活動をはじめた」「私は東北とこれこれの関わりをもった」「避難所に駆けつけた」云々という人たちの、まー自慢げなこと(苦笑)。自慢という語に語弊があれば、安心感、充足感とでもいいましょうか。彼ら彼女らは具体的な行動をおこすことによって「うしろめたさ」や「罪の意識」を軽減、または払拭できたのだろうと思うのです。ボランティアはそりゃ多いほうがいいに決まってるから、活動自体はやればいいと思うよ。思うけど、「行動する(できる)人/行動しない(できない)人」が区別され、「行動した人」の満足げな報告には非常な違和感がある。

 「活動」と「報道」の差は大きいとはいえ、そこに自覚的なだけでも「311」の好感度は高いです。居心地の悪さに、かんたんに折り合いをつけちゃいけないんだよね。

●「311」と私小説
 もうひとつ、「うしろめたさ」から私が思い出したのは、近代日本の伝統芸であるところの「私小説」です。私小説って「自分史」や「私生活」をモデルにした小説のことだと思われているかもしれないけれど、ほんとは「かっこ悪い自分」「みっともない自分」「恥ずかしい自分」をあえてさらすところに眼目がある(「女弟子がのこした蒲団に顔を埋めて泣く」って箇所が有名な田山花袋『蒲団』からはじまったことでもわかる)。
 私小説の全盛期は大正〜昭和戦前期です(ちなみに現代でも、車谷長吉とか、昨年芥川賞を受賞した西村堅太とかいますけど、現代の私小説作家は、技巧的なぶん、ちょっとニュアンスがちがう)。私小説の神髄は「自虐芸」にあると私は思っていますけど、ふつうに読んでると、必ず腹がたってくるんだよね、私小説って。
 「書く私/書かれる私」「描く私/描かれる私」の間に横たわる葛藤みたいなものがテーマといえばテーマですが、多くの読者は「書く私」でもなければ「書かれる私」でもない。しかも私小説作家は生活の面はどうしようもない男たちですら、「そんなことで悩んでいる暇があるなら、さっさと仕事でも捜さんかい」みたいな気持ちになってくるわけ。

 「311」はもちろん私小説ではありません。しかし、自己言及的なところは、私小説と近似したところがある。「311」に不快感を示した人たちの反応は、私小説の読者と似ているように思いました。「あんたがオロオロする姿なんか見たってしょーがないよ」っていう……ね。私小説も徹底すると、読者の意識をゆさぶるところまで行くのでしょうが、それは作者と読者の生き方が重なったときに
限られるような気もする。
 
 では「311」はどうか。自己言及的であることは認めるし、セルフ・ドキュメンタリーの要素を含んでいるのもたしかですが、「作品化」を目指して取材に入ったわけではないせいか、「私小説」として考えると、中途半端な感は否めません。「報道する人のうしろめたさ」にみんなが共感できるのか。あるいは、この映像から「うしろめたさ」を感じることできるのか。となると微妙です。このへんの「伝わりにくさ」が「罵倒」につながったのではるまいか。

 森達也には、しかし、もともと私小説作家的な資質があると自分でも思いません?(『池袋シネマ青春譜』のことをいっているわけではない)。「上から目線」的にいうと、それが森達也のノンフィクションの美質だと思うのです私は。ほめているのです、もちろん。
 
 この1年、文芸時評をやってたこともあり、震災がらみの作品(小説やエッセイや論文など)をイヤッというほど読むハメになりましたが、いまの段階でいえるのは「美しくまとまった作品」より「混乱を混乱のまま受け止めた作品」のほうが、はるかにイイということでした。その意味で、混乱のきわみにある「311」も当然、後者にはいります。

 本日、新著『オカルト』届きました。ありがとうございました。どうしてみんなこんなに次々本が書けるんだろう。と思うと、それだけで落ち込みそうです。どうやったら、そんなふうに生産性が高くなれるのか教えてほしい。いやマジで。

 森達也の作品ばかり論じるのは悔しいので、たまに斎藤作品を論じさせたいと思いながら、なかなか望みが果たせずにいる斎藤美奈子。




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