現代書館

WEBマガジン 12/06/06


第三十九回 3・11と9・11

斎藤美奈子

森 達也さま

 世間は大型連休のまっただ中。渋谷にも東急文化会館の跡地にヒカリエっていう大型商業施設ができて、なんだか人がいっぱいです。東急文化会館、さびれてて結構好きだったんだけどな。渋谷駅周辺は、ずーっと工事中。再開発はまだまだ続き、東急百貨店東横店もいずれお取り壊しになるようです。いまのうちに写真を撮っておこうと思います。

そんな質疑応答が当たり前のように要求される表現形式は、世界中でも映画だけだ(もちろん書籍や演劇などにおいてもメディアからの取材はあるけれど、特に映画祭における映画の無防備さは突出していると思う)。<

 へええ、映画祭って、そうなんですね。劇映画の場合でもそうなんですか? ファンサービスっていうことなんでしょうか。なんか「遅れてる」感じがしちゃいますね。
 それで思い出したのは、ロラン・バルトがいう「作者の死」という概念です。
 文芸批評や文学研究の世界でも、かつては作家のモチベーションとか個人史から作品を読み解いていくやり方が、当たり前のように行われていた(いまでも大学の文学部にはこの習慣が残ってて、作家研究の手はじめには「年譜」をつくるのだと聞いたことがある)。
 しかし、作者がどうであろうと作品には関係ない。読者は作品(テクスト)のみに真摯向き合うべきである、という発想が80年代以降には支配的になってきた。「作者の死」という言葉はバルト『物語の構造分析』(1979)に出てきます。
 作者の支配から脱することによって作品(テクスト)は自立性を持ち、はるはかに自由な解釈が可能になる。バルトはもっと複雑な言い方をしていたと思いますが、ともかく私が文学作品を曲がりにも読む気になったのは、ロラン・バルトを読んで「作者の死」を知ったのがキッカケだったといっても過言ではないです。
 だから、少なくとも私は、小説の書評や批評をするときは、作家のインタビューなどは参照しないし、たとえ参照しても無視します。だって作家が、そんなに簡単に「ほんとのこと」を明かすとも思えないじゃない? 作者の発言を信じること自体がナイーヴすぎる。
 その伝でいくと、映像作品にも「監督の死」が宣告されたっていいわけですよね。

 といいつつ、私も「311」は監督の解説がなかったらどうだったのだろうとは思うのですが、貴君のこういうお話↓を読むと……
 
ただし単純化を拒絶することを自動律として内包するドキュメンタリーは、ドラマとは少しだけ違います。特に『311』は、(美奈子さんも指摘するように)観客に相当なリテラシーを要求する映画だと僕も思います。つまり負荷が大きい。最低限の説明は必要かもしれない。いや必要なのだろうと思っています。だから気分としては、ぐずぐずと抵抗する一人称的な生理をカポーティ的な論理でねじ伏せながら、取材に答えたりマイクを手にしたりしています。<

 作り手が自作を自分で解説しなきゃいけないっていうシステムが、そもそも不幸なんだよなという感想を持ちます。批評家の仕事でしょう、それは。監督がいちいち引っ張り出されるのは、批評家が機能していない証拠ではないのでしょーか。それとも信頼に足る(ドギュメンタリーの)批評家が、そもそもいないってことなのでしょうか。まあ文学の世界も似たり寄ったりなので、大きなことはいえませんが。
 それから「不謹慎」問題。

考えてみたら英語でも、「不謹慎」を的確に訳す言葉はない。「非常識」とか「不道徳」とか「冒涜的」などの言葉はあるけれど、「不謹慎」のニュアンスは微妙に違います。不謹慎には基準がない。道徳でもないし法やルールでもないし個人の良心でもない。強いて定義すれば場の雰囲気。山本七平言うところの空気。つまり大多数の人たちと異なる動きをすること。とても日本独特です。

 そうですね。これはルース・ベネディクト『菊と刀』(1946年)がいう「恥の文化」ってやつですね。西欧が内面的な善悪の判断(良心)に従ってものごとを判断する「罪の文化」なら、日本は外的な強制力(まさに空気)によって動く「恥の文化」だと。「不謹慎」ほど「恥の文化」をよくあらわしている言葉もない。「良心」という概念は一神教と結びついているように思うので、これも還元すれば、宗教観の違いに行き着くのかもしれませんが。
 
 最近読んだ本に、堤未果『政府は必ず嘘をつく』(角川SSC新書/ 2012年)っていうのがあります。著者は『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書)で話題になったジャーナリストです。『政府は必ず嘘をつく』には「アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること」
というサブタイトルがついていて、タイトルはかなりセンセーショナルですが、中身は(ところどころ論理が乱暴な部分もあるものの)真摯な警告でした。
 彼女がここで書いているのは、ざっくりいえば「311以後の日本は911以後のアメリカに似ている」ということです。が、この中でちょっとショックだったのは「民主革命」と喧伝されていた「アラブの春」についての考察です。

 昨年の12月、リビアのカダフィ大佐が殺害された際のニュース報道は「独裁者がついに死亡」「民主革命の波がついにリビアにも」といった歓迎ムードのものでした。貴君が「ビン・ラディン殺害」のニュースに違和感をもったのと同じで、私もこのニュースには違和感を覚えなかったわけではないものの、ぼんやり見すごしていたことは否めません。
 ところが、『政府は必ず嘘をつく』に登場する各国ジャーナリストの証言は、リビアに対する私たち(西側メディア)のイメージとは大きく違っている。
 たとえば、こんな証言。
 「私にはリビアにたくさん友人がいるけれど、彼らは高学歴、高福祉の国であるリビアを誇りに思っています。アフリカ大陸で最も生活水準が高いリビアでは、教育も医療も無料で、女性も尊重されている。日本人はそういうことを知っていますか? 国民は、電気代の請求書など見たことがありません。42年間も政権を維持できたことには、ちゃんと理由があるのです」
 こんな証言も。
「西側メディアはNATO軍の攻撃を、まるで暴力的な独裁者から民を救う救世主のように描いてみせましたが、7月1日にトリポリの広場であったような事実(※トリポリの「緑の広場」でトリポリの人口の95%に相当する170万人の市民がNATOの爆撃に抗議した)は、決して見せようとしないのです」
 シリアについても。
「アサド政権は独裁的な性質を持っていますが、大統領は自由な選挙で選出された指導者であり、国民の人気の高い人物です。私たちシリア国民が彼を支持するのは、彼の父親が抵抗運動で有名だったことと、欧米の支配に屈しない姿勢からです」

 日本の北朝鮮報道もたいがいひどいけど、報道にバイアスがかかっているのは、当然ながら日本だけではないってことです。この本の証言を100%信用できるかどうかは別としても、オルタナティブな視点の必要性を改めて感じます。
 今回は貴君の問題提起からの連想ゲームみたいになってしまいました。お許しください。

斎藤美奈子

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