現代書館

WEBマガジン 13/12/09


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第十六回

件名:デモをテロと言う国
投稿者:森達也 2013/12/03


美奈子さま

 もうずいぶん時間が過ぎちゃったけれど、2日の新潟はお疲れさまでした。・・・と書いても、これを読んでいる多くの人には何のことかわからないだろうから、新潟国際情報大学のウェブサイトから2日の催しについての言及を引用します。

 「本学開学20周年記念式典および公開シンポジウムを平成25年11月2日(土)新潟市中央区のANAクラウンプラザホテル新潟にて開催しました。当日は秋晴の好天にも恵まれ、多くのご来賓をはじめ、国外の提携大学からも多数参加されるなど、国際色豊かな賑わいとなりました。(中略)さらに、祝賀会終了後は、公開シンポジウム「新潟と国際と情報について」を開催し、芸術家の会田 誠 氏、文芸評論家の斎藤 美奈子氏、ドキュメンタリー作家の森 達也 氏の3名のパネリストを迎え、情報文化学科 越智 敏夫 教授の司会のもと、共にディスカッションを行いました。
 シンポジウムでは、個性豊かで主義主張の明確な3名のパネリストによって、同時代的な社会問題から教育の在り方、芸術の至高性まで、ありとあらゆることが語り尽くされました。また、シンポジウム終了後には、参加者から多くの質問や意見が寄せられ、全体を通して充実した1日になった様子でした。
 記念式典および祝賀会にご出席いただきました皆様、そして公開シンポジウムにご参加いただきました皆様、大変ありがとうございました。」

 ・・・少なくとも「同時代的な社会問題から教育の在り方、芸術の至高性まで、ありとあらゆることが語り尽くされました」は褒め過ぎだと思うけれど、まあでも面白かった。会田さんのちょっととぼけた個性と、司会の越智さんの健全な過激さも、うまい具合にマッチしていたと思う。斎藤美奈子=ジャンボ鶴田論も面白かったし(これについてはいずれこの往復書簡で書きます)、打ち上げのお店の料理もおいしかったね。ノドグロは確かに絶品だった。美奈子と会田さんが最終近い上越新幹線で帰京したあとも、冷やの日本酒を飲み続けてしまい、二軒めで完全につぶれました。
 それからほぼ一カ月。この間もいろいろあった。思い返せばこの往復書簡は、「もう床屋談義はやめよう」と互いに言い合いながら、結局は床屋からどうしても離れられないまま政治や社会ネタを互いに書き綴るスタイルで、ここまで来てしまった。
ある意味で仕方がないよね。これだけ社会が動いている。そう書くと、「社会はいつだって動いている。今だけ社会が動いているかのような言説は、昔の若者は良かった的な永遠回帰的でノスタルジックなレトリックでしかない」と読者から指摘されるかもしれないけれど、でもやはりこの数年、特に民主党政権から自民党政権に変わったこの一年は、日本の戦後史においても相当にドラスティックな動きが表面化した時期だと思う。
僕はやはり仕事柄、どうしてもメディアが使う言葉の意味の変遷が気にかかる。決して「標準語原理主義者」ではないつもりだけど、やはりここ数年、言葉の使いかたがとても杜撰になってきているような気がする。

 ジョージ・オーウェルが書いたディストピア小説『1984年』において国家は、国民の思考を単純化して統治しやすくするために様々な手法を使う。簡略化された言語と制限された語彙によって成り立つニュー・スピーク(新話法)はそのひとつだ。国民はこの話法を強制され、やがて国家に異議を唱えたり疑問を持ったりすることができなくなる。
 日本でも第二次大戦末期には、「敗走」や「撤退」を大本営とメディアは「転進」と呼び、「避難」は「疎開」になり、「全滅」は「玉砕」と言い換えた。国民の戦意を絶やさないためだ。
 人類がこれほどに繁栄した理由のひとつは、適応能力が極めて高いからだ。でも高い適応能力は、周囲の環境や状況に、自分の思想や感覚を無意識に合わせる馴致性につながる。つまり自分に対してのマインドコントロールだ。すりかえられた意味が、いつのまにか前提になってしまっている。でも誰も気づかない。あるいは気づいても口にしない。こうして社会が少しずつ変わる。特に集団化と相性がいい日本人は、こうした傾向が強い。周囲に合わせる傾向が強いからだ。


 引用したのは、「現代用語の基礎知識」2014年版に寄稿した「政治の言葉」の序章の一部。このあとに「言い換えられた言葉」として「将軍さま」と「ミサイル」と「日米同盟」を挙げたのだけど、他に「テロ」もあるよね。

 石破茂幹事長が11月29日付の自身のブログで、特定秘密保護法案に反対する市民のデモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と批判している。「議員会館の外では『特定機密保護法絶対阻止!』を叫ぶ大音量が鳴り響いています」「人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはない」だって。
 テロの本質は、何らかの政治的目的を達成するための手段として、社会に対して暴力による脅威を与えること。近年の日本のメディアは政治的目的がなくても「テロ」を安易に使う傾向がとても強くなっているのだけど(ボストンマラソンの爆破事件のときはひどかった)、石破幹事長にとって「テロ」と「デモ」は、社会に脅威を与えるという意味で同じ位相にあるらしい。
 うっかり本音が滲んじゃったなという印象。朝日新聞の取材に対しては「大音量という有形の圧力で一般の市民に畏怖の念を抱かせるという意味で、本質的にテロ行為と同じだと申し上げた」と答えているけれど、でも永田町には一般市民が暮らす住居などほとんど(あるいはまったく)ない。デモ隊としては国会や議員会館内の議員たちに聞こえるように音量を上げているわけだけど、それを自分たちへの脅しと解釈してテロなどという言葉が出てくるのだろう。
 何かもうどこから反論すればよいのかわからない。言葉の意味や政治家と市民の関係など、あらゆる要素が倒錯している。

 特定秘密保護法については、論外で希代の悪法で話にならなくてそもそも必要性がないことは大前提です。でも標的にされているはずの組織メディアの抵抗があまりに不甲斐ない。テレビは論外。もういい。もう本当にいい。心の底からあきれた。TBSとテレビ朝日の一部の人たちが頑張っていることは知っているけれど、他はまったくだめ。NHKはどうしちゃったのだろう。もっとひどいのは週刊誌。週刊新潮と週刊文春が「みのもんた叩き」ほどの情熱を持ってこの法案への違和感を提示すれば、あるいは週刊現代と週刊ポストが「熟年セックス」で割くほどの頁を使ってキャンペーンを展開すれば、それこそ国会議員への影響力は今の比ではないと思う。でもほとんど記事がない。言及すらしない。この法案が可決されて真先にやり玉に挙げられるのは、明らかにゲリラ的手法が身上の雑誌ジャーナリズムだと思うのだけど、その危機感がまったくない。
 ここにきて新聞は相当に目の色が変わってきた。特に朝日と毎日と東京と日経。それはまず評価したい。でもやっぱり違和感がある。書こうかどうしようか少し逡巡したけれど、どうしても言いたくなる。
 今こうして反対するならば、「ねじれ解消!」とか「アベノミクス」などの狂騒は何だったのかと。
自民党は選挙前に憲法草案をウェブサイトで提示しているし、日本版NSCの構想や集団的自衛権への踏み込みも明示されていた。つまり今のこの路線と状態は充分に予測できていた(僕のレベルですら予期していた)。 安倍首相にしてみれば、何で今ごろ国民とメディアは僕ちゃんの梯子を外そうとするの?という気分だろう。
だから政治家が強気になる。多少の反対があっても通してしまえば何とかなると思っている。デモはテロだと本気で口にする。要するに舐められている。その責任はこの国の国民とメディアにある。ならばここで阻止しても、またいずれ同じことを繰り返すことは目に見えている。こうして少しずつ一定の方向に近づいている。 10年前と今とではこの国の形はこんなに違う。
 だから半ば本気で、「もう通しちゃえば?」と思う。中途半端な絶望が最もよくない。徹底して絶望すればよい。
 ・・・もちろん今は正念場だ。思っていても口にすべきではないとの理性くらいはある。数日前のシンポジウムで「通しちゃえば」的なことを口走ったら、参加者から「今はシニシズムがいちばんいけない」と窘められた。それはわかっている。わかっているけれど言いたくなる。じゃあ何であんなに勝たせたのさ?

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