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WEBマガジン 19/10/21


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第九十六回

件名:映画の洗礼
投稿者:森 達也

美奈子さま

11月に公開する映画の編集が佳境です。本当ならもうとっくに完成して試写をやる時期になっていなければならないのだけど、気がついたら公開日はすぐ目の前で、しかも公開前に東京国際映画祭で上映することまで決定した。ところが編集はまだ終わらない。普通ならとっくに試写が始まっていなければいけない時期なのに。
編集作業中で余裕がないことを伝えたせいか、菊地さんからはいつものような催促は来ない。でも来なければ来ないで、本当は催促したいのだろうな、と気持ちを忖度すると落ち着かない。
今現在も編集は終わっていない。まあでも、モニターを見る目を休めて字を書くことは(結局はどちらもモニターだけど)、ある意味でクールダウンの効果を自分にもたらしてくれる。他国の法相辞任がこれほど大きなニュースになる理由がわからない。台東区は台風のときに避難所からホームレスを排除した。長崎の大村入国管理センターで収容中のナイジェリア人男性が餓死した。餓死だよ。これ絶対におかしくないか。
……などなど相変わらずヒートアップすることばかりだけど、とにかく編集作業の合間に文章を書きながらクールダウン。今回は映画について書きます。
初めて観た映画は何だろう。小学校低学年のころにディズニーの『砂漠は生きている』を観てものすごく面白かった記憶がある。
とここまでを書いてからネットで調べたら、この映画は僕が(ということは美奈子さんも)生まれる前に公開されている。そして文部省(当時)は、この映画を観ることをすべての義務教育校に義務づけたとも書かれている。知らなかった。そうなのか。ならば僕らの世代の共有体験。それにしても羨ましい。僕の映画も全国民に視聴を義務づけたい。
次の映画体験は何だろう。時期が曖昧だけど、『サウンド・オヴ・ミュージック』とか『チップス先生さようなら』など文科省推薦映画を学校の講堂で観た記憶がある。怪獣映画やアニメ映画の時期もあった。なぜか一回だけ母親に連れられて行った映画館で、吉永小百合さんが出演している映画を観た記憶がある。なんか純愛映画。何でこんな映画を自分が観ているのかさっぱりわからなかったし、母親が僕を連れて行った理由もわからない。
受験が終わって高校(つまりここで美奈子さんと同窓になるわけだけど)の入学式を迎えるまでの春休み、中三のときのクラスメートに、新潟市古町にあった名画座ライフに誘われた。怪獣映画とアニメ映画を別にすれば、自分の小遣いで初めて観る映画だった。ちなみに僕を誘った池田君は無類の映画好きで、今は札幌で牧師をやっている。
ライフで『いちご白書』と『イージーライダー』を観て、とにかく比喩ではなく腰が抜けるほどに衝撃を受けて(実際に席から立たずに二回続けて観たような気もする)、それから映画館通いが始まった。
ヌーヴェルバーグの時代には遅れたけれど、この頃のアメリカ映画の主流はアメリカン・ニューシネマ。つまり反体制で反権力。騎兵隊によるアメリカ先住民族への虐殺をテーマにした『ソルジャーブルー』が典型だけど、これまで前提とされてきた正義や善悪の構図に対して、アメリカン・ニューシネマの多くは逆の視点を提示した。そしてほぼ必ずアンハッピーエンド。例えば『明日に向かって撃て』、『俺たちに明日はない』、『真夜中のカウボーイ』、『スケアクロウ』など、アメリカン・ニューシネマの主人公は、決して正義のヒーローではない。ラストで巨大な権力に押しつぶされる。
少なくとも月に一回はライフでアメリカン・ニューシネマを観続けてきた。その影響はきっとあると思う。とはいえもちろん、同世代の映画好きがみな同じような傾向になるわけじゃない。僕の中の何かが、アメリカン・ニューシネマに呼応したという見方のほうが近いような気がする。
数週間前にピーター・フォンダが逝去した。僕にとってはひとつの時代の終わり。内容は少し重複するけれど、共同通信に寄稿した追悼文を最後に貼り付けて今回は終わらせます。

このとき僕は中学3年生。早熟で映画好きのクラスメートに誘われて、生まれて初めて名画座に足を運んだ。プログラムは『いちご白書』と『イージーライダー』の二本立て。上映が終わったとき、(比喩でも誇張でもなく)僕は席から立てなかった。それほどの衝撃だった。いわば映画の洗礼だ。
この時期のアメリカ映画の主流はアメリカン・ニューシネマ。反体制で反権力が真髄だ。主人公は組織(国家)に抗い、そして最後に力尽きる。ハッピーエンドは望めないしカタルシスも与えられない。特に『イージーライダー』は典型だ。主演のピーター・フォンダ演じるキャプテン・アメリカは、ラストにショットガンを手にした行きずりの農夫にいきなり射殺される。
アメリカン・ニューシネマを一言で形容すれば「視点の変換」だ。例えば『ソルジャー・ブルー』は、正義の騎兵隊と野蛮なインディアンというそれまでのジョン・フォード的西部劇の構図を、インディアンの視点からひっくり返す。スクリーンに現れるのは、純朴で平和を愛するインディアンを一方的に攻撃する残虐な騎兵隊だ。同時代のベトナム戦争への強烈な批判であると同時に、権力に弾圧される市民や学生たちへのオマージュであることは言うまでもない。
日本でもアメリカン・ニューシネマは全共闘世代に強く支持された。熱い政治の時代だった。洗礼を受けて映画館通いを始めた高校生も、時代の熱気を共有したような気分になっていた。
ただし『イージーライダー』後のピーター・フォンダのキャリアは、決して華々しいものではない。父は名優ヘンリー・フォンダで、姉は社会派としても著名な女優であるジェーン・フォンダ。そして娘のブリジット・フォンダも女優として成功した。ピーターはいつもマイペース。俳優としての欲や業が薄い人という印象だ。アメリカン・ニューシネマの時代は1970年代後半に終焉する。ほぼ同じころに日本でも、若者が政治や社会運動に熱狂する時代は終わりを迎えた。時代を強く体現したからこそ時代と共に消える。後付けを承知で書くが、『イージーライダー』で社会や政治への関心を着火された僕にとって、ピーターのその後の生涯は暗示的だ。

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