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WEBマガジン 20/12/17


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第110回

件名:こんにちは、ガースーですに怒らずに高級ステーキで怒る国
投稿者:森 達也

美奈子さま

ドイツのコロナ死者数が過去最多の590人(一日あたり)を記録した12月9日、連邦議会において行われたスピーチでメルケル首相は国民に、クリスマスシーズンになるけれど生活を自粛してくださいと訴えた。どちらかといえば感情を表に出すタイプではないメルケルが、本当につらそうに「私は1日590人の死を受け入れることができない」と訴える場面はとても印象深い。
コロナの死者数が増える可能性について彼女が触れたとき、「まったく証明されていない」「戦時中のプロパガンダそのままだ」「国民を恐怖に陥れている」などと極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の議員たちからヤジが飛んだ。数秒だけ沈黙してからメルケルは、「私は啓蒙の力を信じている」と言い返した。
啓蒙という言葉が的確かどうかはちょっと自信がない。日本語の啓蒙は、何となくポリティカルコレクトで上から目線的なニュアンスがある。その後に彼女が口にした「科学的知見」のほうが的確だと思う。
物理学者でもあるメルケルは、東ドイツの出身だ。世界中で称賛された3月の国民向けのスピーチで学校やイベント、コンサートなどの閉鎖に触れながら彼女は、「旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であることを実感している私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく決められるべきではなく、一時的にしかゆるされません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです」と国民に訴えた。
そのメルケルのスピーチから二日後、東京の感染者数が初めて600人を超えた12月11日、菅義偉首相は「ニコニコ動画」の生放送に出演して国民に向けての第一声で、「こんにちは、ガースーです」と言ってからニヤニヤと笑った。
ジョークが滑ったとかそんなレベルではなく、本気で人間性を疑う。メルケルが国民向けのスピーチで最初に、「こんにちは、ケルメルです」と言ってからニヤニヤ笑うシーンを想像してほしい。ドイツ国民は即座にメルケルを辞任させるはずだ。あなたには国民の代表の位置につく資質も気構えも知性もないと。
でも日本では「こんにちは、ガースーです」について、ネットで一部の人が嘆息するくらいで、基本的には問題視されることはない。
前回美奈子さんが触れた「桜を見る会」前夜祭の問題における安倍事務所の公職選挙法ないし政治資金規正法違反の疑いについては検察が今も動いているのかもしれないけれど、「菅首相の2500人パーティー」をめぐる政治資金報告書不記載の問題(そもそも横浜ロイヤルパークホテルの大宴会場のパーティなのに会費はなんと1500円)については、結局は週刊ポストに続くメディアがほとんどないから、国民の多くは知らないか、知っても忘却しかけている。
忘却といえば、何といっても日本学術会議任命拒否問題。映画制作者有志で声明を出したとき、きっとこの問題は曖昧なままで忘れられる、と朝日のインタビューで(例によってネガティブを気取って)話したけれど、まったくそのとおりになってしまった(ここではこれ以上言及しないけれど、学術会議そのものと梶田隆章会長の自民党への対応についても、僕は非常に不満だ。あなたたちのその弱腰で曖昧な姿勢のために、僕たち表現行為に関わるものだけではなく多くの人が深刻な被害を受ける、と抗議したい)。
ところが昨日から今日にかけて、Go Toトラベルの全国一斉停止を発表した14日夜に菅首相が5人以上(8人らしい)と高級ステーキレストランで会食をしていたことについて、急に火がついたようにテレビなど多くのメディアが問題視している。
もちろん問題視することは当然。首相なのだからその動向は公開される。それを承知で、しかもGo Toトラベルの全国一斉停止と自粛の呼びかけを発表したその直後に、なぜ迷う気配もなく高級レストランに行けるのか。事態を甘く見ているならリーダーとしての資質に欠けるし、このくらいはメディアも問題視しないだろうと思っていたなら国民をなめている。
高級ステーキレストラン「ひらやま」の一人の会費は6〜7万円らしい、などのニュースとともに、大阪で数カ月前に餓死していた母娘二人の遺体が見つかった、とのニュースも報道された。日本の貧困率の高さはアメリカに次いでG7中ワースト2位。ひとり親世帯ではOECD加盟国35カ国中ワースト1位。餓死予備軍はまだまだいる。助けを求める声が出ないほどに衰弱している人もたくさんいる。でもあなたたちは高級レストラン。シャトーブリアンと最高級ワインの組み合わせは美味しかったですか、と聞きたい。国民のために働く内閣。確かにあなたは言ったよね、と何度も確認したくなる。
でもなぜ高級ステーキレストランの会食について、テレビなどメディアは急に熱心に報道し始めたのだろう。どう考えても日本学術会議任命拒否や政治資金報告書不記載に比べれば、はるかにレベルの低い案件だと思うのだ。
とここまで書きながら気づく。レベルが低いから報道できるのだろうか。国民の多くは眉をひそめて終わり。「こんにちは、ガースーです」に多くの人が怒らない国なのだ。大きな問題にならないからこそ報道できる。悲しいけれど、そうとしか思えない。

森 達也

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