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WEBマガジン 22/10/03


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第131回

件名 :もう一度『橋のない川』
投稿者:斎藤美奈子

森 達也さま

 撮影は順調に進んでいらっしゃるでしょうか。
 ほんとうは、安倍元首相の国葬のこととかを書くべきなのでしょうけれど、気が進みません。なので、まったく別のことを書きます。
 唐突ですが、住井すゑ『橋のない川』についてです。

 もう月が変わってしまいましたけど、9月の前半から中頃まで、私は『橋のない川』で頭がいっぱいでした。駒場の日本近代文学館で、この作品について話さなければならなくなったためです。
 ご存じのように、今年は水平社宣言100年の年ですが、それはあんまり関係なくて、同じく今年は住井すゑの生誕120年なのね。それで、いま近代文学館で「住井すゑ展」をやっているのです。その関連でトークショーに登壇するハメになってしまった。
 なので全七巻、みっちり読み直しましたですよ(前に全巻読んだのは「中古典」の連載中で、6年くらい前。しかも、5巻以降は早送りの飛ばし読み)

 で、なんとなくネットを検索していたら、あれあれ、誰かが『橋のない川』について書いている。珍しいなあと思ったら、なんと森君でした。6/9(木) 配信のニューズウィーク日本版でした。https://www.newsweekjapan.jp/mori/2022/06/post-49.php
 それで少し嬉しくなった次第。だって誰もこの本、読んでない(あるいは読んでても忘れてる)からさあ。話したくても誰とも会話が成立しないわけですよ。しかし、いまの君となら(たぶん内容も覚えているだろうし)話が通じるかもしれないと思ったわけです。

 といっても、そんなに面倒な話ではありません。
 私が考えていたのは、『橋のない川』はなぜ文壇で冷遇されてきたのか。ひいては日本文学にはなぜ差別問題を真正面から描いた作品が少ないのだろうか。といったことです。
 『橋のない川』に関していうと、これって全七巻で440万部のベストセラーなんですよね。第一部の初版が出たのは1961年、第七部が出たのは91年、おそろしく時間がかかっているのだけど、新潮文庫版は全七巻、すべて今でも新刊で手に入ります。こういう本は珍しいです(それなのに読んだという人が少ないのは謎)。
 本が売れたのは映画の影響も大きいと思うけど、それにしたって映画はずいぶん前(今井正版は69年、東陽一版は92年)の話ですからね。そんなロングセラーなのに『橋のない川』に関する評論や研究はものすごく少ない。なぜなんだろうか。
 私が考えた理由はこんなところです。

(1)芥川賞(純文学)からも直木賞(エンタメ)からも、こぼれ落ちる作風
 読めば一目瞭然なのですが、『橋のない川』って児童文学の文体と構成なのね。住井すゑ自身はインタビューで、「童話の手法」で書いたといっています。それが一番おもしろくなるのだと。同じように「童話の手法で」成功したのはトルストイだともいっている。
 そして日本の文学者は、大衆の読み物であるという決めつけ方で、こういうのをなべて軽蔑してきた(と思います)。別言すると「わかりやすいのはダメである」ってことです。

(2)メッセージ性がありすぎる
『橋のない川』非常に「おもしろい小説」なのですが、半面、政治的なメッセージも相当含まれています。特に大人も子どもも天皇制批判がすごいです。作品が書かれた60年代〜70年代はそういう時代だったし、天皇制に関する見解はたぶんに住井すゑ自身の思想を反映しているのだと思いますが。さらに言うと、孝二は幸徳秋水に心酔してるのね。大逆事件の首謀者がどれほど悪辣なやつかという話を校長が学校でした際、孝二は逆に感動して「なんて立派な人なんだ」と思ってしまう。で、その後は、大杉栄にも難波大助にも興奮して肩入れする。
 なべて日本の文学者は、この種のメッセージ性の強い作品を嫌います。反体制だからけしからんとかいうのではなく、芸術性が低い、と見なされる。今でもこの傾向はあると思いますね。『橋のない川』のメッセージは物語に溶け込んでいるので鼻につくほどではありませんが、それでもです。

(3)教育的、啓蒙的である
 メッセージ性を拒否する理由と同じ。ことに『橋のない川』は差別を考えさせるツールとして優れたテキストなので、教育的なのは文学的ではない、と判断されやすい。

(4)女性のベストセラー作家は嫌われる
 ヒガミっぽい決めつけ方ですが、これ、私はあると思うんだよね。最近、必要があって戦後の女性作家の作品を読み直す機会が多いのだけど、女性作家はほんと、ちゃんと評価されてこなかったのだなと思うことが多い。田辺聖子とか有吉佐和子とか。住井すゑもそれかもしれない。大衆(特に女の)に受けてるだけの低級な女流作家、みたいな位置づけね。正直、前は私もそう思ってたところがないとはいえない。最近は逆に、女性作家の作品のほうが評価は高いですけど。

 まあ、すべて印象論で言っているだけですが、おかげで住井すゑは文学史の中できちんと評価されることもなく、差別はいつまでも、なくならない。
 部落差別を描いた作品は、じつはかなりあるようですが、でも、みんなが知っているのは、島崎藤村の『破戒』と『橋のない川』くらいじゃない? なんでそれしかないんだろう、と思います。

 最後に少しだけ物語内容に関係した話題を。
 『橋のない川』の中でも、特に印象的なのは、孝二が同級生の女の子(杉本まちえ)に手を握られるエピソードですよね。森君が書いてたコラムから引用させてもらうと、「クラスメイトの女の子に手を握られた孝二は好かれていると勘違いするが、部落民は夜に蛇のように体温が下がると聞いたのでそれを確かめたのだと打ち明けられる」という話。
 孝二の失恋と「差別された」という思いが同時に襲いかかるエピソードなんだけど、この話には続きがある。杉本まちえは、なぜそんなことを言ったのか。
 ふつうに考えても、同級生にからかわれたくなくて、彼女は「べつに孝二が好きなわけじゃないもん」と言い訳しただけかもしれない。もう少しいうと「部落の男の子なんか、あたしが好きになるわけないじゃない」という顔をしたかった。どっちにしても杉本まちえは、孝二を好きだった可能性がある(というか、たぶん好きなんだよ)。

 そして実際、まちえは孝二に自分がしたことをずっと後悔して、このあと悩むんですよ。でもそれを孝二にはっきりとは告げられない。後のほうの巻に進むと、彼女は女子師範を出て小学校の教師になり、小森の子どもたちに温かく接する女先生として出てくる。で、恋愛も結婚もせず、自立をめざして単身で上京するわけ(ここは住井すゑ自身の姿と重なる)。
 『橋のない川』はそこで作者が死去し、「未完」のまま終わるので、その後2人がどうなったかは描かれていないのですが、作者はたぶん、2人が結ばれる結末を考えていたと思う。それが「川に橋をかける」の意味ですからね。孝二が何度も「橋のかかっていない川」の夢をみるのは、その伏線。
 しかし、伏線がなかなか回収されないのが、このテキストの特徴で、仮に作者がこの先を書き続けていたとしても、いつになることやら、だったと思いますが。

 貴君がコラムで書いていた、今井正監督の映画『橋のない川』についていうと、この映画は私は見ていないので、きちんと判断はできませんが、本と同様、映画も再評価されてしかるべきではないだろうか。部落解放同盟が上映阻止運動を繰り広げたという第二部に関しても、その情報が先行しすぎている気がします(見ないでいってるんですが)。 
 ただ、92年に部落解放同盟の肝いりで制作された、東陽一監督の『橋のない川』は感心できなかったな(こっちは動画配信サービスで見ました)。内容を詰め込みすぎ。断片の羅列で、原作を読んでない人には何が起きているのか、さっぱりわからないと思うし、ふで(孝二と誠太郎の母)の恋愛話は完全に不要。これでいっぺんに萎えました。以上、余計な話でした。

斎藤美奈子

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