現代書館

WEBマガジン 17/05/23


第4回 1−3 ヘンな高校生の「入門」(その3)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」

 
 ミールではこのような作業を通して発音を矯正していく。先生がいうところの「音を作る」のである。
 この作業は入門科だけでなく、上のクラスに進級しても同様に指導されるが、発音については入門科がもっとも厳しい。発音が悪ければ、たとえ大学のロシア語学科を卒業していても、入門科からやり直さなければならない。しかも《音楽会へ行きましょう》といったような単純明快な文が正しく発音できなければ、先生からくり返し注意を受けるのである。

 発音はペラペラと流暢であればよいというものではない。むしろその反対で、ミールでは一つひとつの音を正確に発音することが求められる。ウダレーニエを強調しながら、一つひとつの音を丁寧に発音し、さらにはイントネーションにも気を遣う。すべてをこなすのは相当に難しいのだが、この学校ではそれを目指さなければならない。

 上手に発音するには、家で事前に猛練習しておかなければならない。『標準ロシア語入門』には付属のカセットテープがあり、ロシア人夫妻が吹き込んでいる。授業中に聞くのと同じ音声である。
 だが、たとえそのロシア人とそっくりに発音したとしても、多喜子先生は及第点をくれないだろう。ロシア人よりも大きな声で、しかもウダレーニエはずっと強調しなければならない。わたしは頭の中で、多喜子先生が発音することをイメージしながら、練習をくり返した。
 
 ロシア人と同等の発音を目指さない。このことを疑問に思う方もいるのではないか。だがわたしは、発音矯正の本質がここにあると信じている。
 発音はネイティブに習うより、日本人の専門家から指導されたほうがいい。

 ネイティブが担当すると、彼らは発言の内容を重視するため、発音にはさほど注意を払わない。話を遮ってまで矯正しようとする外国人教師は稀である。一般に消極的といわれる日本人が何かを話そうとしているのだから、ここで遮ってしまえば再び無口になってしまう。それではいけないので、発音の悪さには目を瞑って、とにかく発言を引き出そうとする。
 そもそもネイティブは母語の発音に対して寛容であり、かなり癖のあるものでも聞き取ってしまうので、それほど気にならないかもしれない。
 これでは発音は決してうまくならない。

 一部の厚かましい学習者が自分の発音の悪さに気づかずにペラペラしゃべるのを除けば、大半は自分の発音に自信が持てないまま、さらに自信が持てないからこそ蚊の鳴くような小さな声で発言する。それではネイティブによく聞こえないから、間違いも訂正してもらえない。上達するはずがない。
 多喜子先生だって、生徒の発言を引き出そうとしているのである。だがやっと引き出せた発言であっても、発音が悪ければすぐに訂正を求める。当たり前ではないか。
 だって授業なのだから。
 ここは学校なのだから。

 わたしは多喜子先生から《ハラショー》を引き出すため、必死で発音練習に励むようになった。
 
     *       *      *

 土曜日。ミールの授業2回目。高校は午前中だけなので、午後は自宅でしっかり予習をし、夕方に余裕を持って出かけた。
 だがこの日の担当は多喜子先生ではなかった。考えてみれば、ミールにはいろんなクラスがあるわけで、一人の先生がすべてを担当するわけにはいかない。
 土曜日担当の藤沼敦子先生は、多喜子先生より穏やかな話し方だった。それでもミールで教える先生であるから、要求することは変わらない。授業の進め方も同様である。

@基本例文と応用例文の発音
A単語テスト
B口頭露文和訳
C口頭和文露訳
D質問と答え
E次回の単語の発音

 @とAに一時間、残りのBからEに30分を割り当てる。その配分までまったく同じだ。
 教科書の解説については、多喜子先生も藤沼先生も生徒から質問がない限り、とくに触れない。独習用の参考書なのだから、ふつうは読めば分かる。練習問題は、C口頭和文露訳のときに先生から出題されることがあり、またD質問と答えの際にも使われるが、解答は巻末に挙がっているから、授業ではいちいちやらない。一人でできることは各自で勉強、授業ではそれよりも発音練習に時間を充てるのである。

 藤沼先生はニコニコしながらも、授業はきっちりとおこなう。とくにイントネーションについて細かく指導を受けた。「もうちょっと声を上げて」「そこはもっと低く」といったコメントが続く。生徒は先生のお手本を聞きながら必死で真似をする。
 発音の指導は音声学的にどんなに正確に説明したところで、生徒に伝わらなければ意味がない。そもそも特別な訓練でも受けない限り、ふつうの人は自分の口や舌を意のままに動かすことさえできない。
 『標準ロシア語入門』は独習用参考書だから、冒頭の発音部では解説がなされているが、「舌先を下の歯の裏に軽くあて、前舌面と口蓋とのうすいすきまを通して歯に強い息を集中します」といわれても、ふつうはさっぱり理解できない。それよりも先生のお手本を聞きながら、「サー」とか「ザー」とか発音するほうがずっと実用的だ。
 
 頭で理解するより体で覚える。
 まるで体育会系ではないか。
 高校の英語の授業と比べ、そのあまりの違いに愕然とする。
 
     *      *       *

 こんな感じで、わたしは夏休み前まで必死にロシア語の発音に取り組んでいた。部活動にも負けない「体育会系ロシア語」が、体にすこしずつ沁み込んでいくのを感じる。スポーツも音楽もやらないわたしには、はじめての経験だった。何かを身につけようとするときは、そういうものなのだろうか。

 とはいえ高校3年生である。進路として大学でロシア語を学ぶことはすでに決めていたが、いくらロシア語をやっても大学には進めない。大学でロシア語を勉強するために、英語などを勉強しなければならないという矛盾に憤りを感じるのだが、文句をいったところで何も始まらない。いよいよ受験勉強が迫ってきたのである。

 7月のはじめ、わたしは多喜子先生に打ち明けた。大学に進学するために受験勉強をしなければなりませんので、ミールはしばらくお休みします。
 多喜子先生はわたしの話をじっと聞いてから、こう仰った。
 「わかりました。でも大学受験が終わったら、すぐに戻ってらっしゃい」
 先生の眼差しは真剣だった。

 必ずミールに戻る。17歳のわたしは、心密かにそう決めた。

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