現代書館

WEBマガジン 18/02/13


第22回 6−3 拝啓、グエン・バン・リン書記長殿(その3)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 厳しい通訳練習が終わると、授業の残り時間は自由トークだった。わたしたちは一夫先生に対して、何を質問してもいい。大切なのは、ロシア語を使うことだった。
 ところがこういう自由トークは、なかなか盛り上がらない。先輩たちはみんな押し黙っている。やはり事前にネタを考えておいたほうが、よくはないか。

 あるとき、わたしはこんな質問を用意してみた。

 「《ミール・ロシア語研究所の歴史を話してください》」

 一夫先生はちょっと意外そうな顔をしたが、しばらく考え、それからゆっくりと語り出した。

 「《ソ連から帰国後、別のロシア語専門学校で会話を教えていたのですが、その頃はいわゆる『スプートニク・ブーム』で、ロシア語を学びたい人がとても多くてね、一クラスに五十人近くも受講生がいました。そんな大人数で会話なんて、土台無理な話で、一人ひとりに『お元気ですか』と聞いているだけで、授業が終わってしまう。もっとちゃんとした授業がしたかったので、自分で学校を作ることにしました。
 当初は今とは違った場所で、木造の二階に間借りしていたのだけど、そこにたくさんの生徒がどんどん上がっていくものだから、床が抜けるんじゃないかと、大家さんが心配しましてね……。》」

 昔を懐かしむように遠くを見つめながら、一夫先生はたくさん語ってくださった。
 話の合間に「Хороший вопрос, очень хороший вопрос.《いい質問ですね。実にいい質問だ》」とくり返していらっしゃった。話は面白いし、先生も楽しそうだし、わたしはとても嬉しかった。
 さらには、以前は別のところに教室があって、そのときからミールだったのだから、平和ビルは偶然の一致なのだということも確認できた。

 「《いい質問ですね。実にいい質問だ》」とくり返しながら、一夫先生の話はどこまでも続いていった。

*        *         *

 これがキッカケというわけでもないのだが、わたしは一夫先生から、とても可愛がられた。社会人のクラスメートたちが、仕事などで授業に遅れたりすると、一夫先生と一対一ということも珍しくなかったが、そんなときは二人してロシア語でお喋りをするようになった。

 一夫先生は、たいへんなヘビー・スモーカーだった。授業中もタバコが手放せない。教卓には空気清浄機というか、煙を吸い込む小型器械があって、先生はそこに向かって煙を吐くように、気を遣ってくださるのだが、教室全体がなんとなくタバコ臭いことは免れない。

 あるとき、他の生徒が現れるのを待っていると、一夫先生からこんな質問をされた。

 「《黒田さん、あなたはタバコを吸いますか?》」
 「《いいえ、まったく吸いません》」

 わたしは今も昔も、タバコが大の苦手である。

 「《それは結構》」

 ここで先生は煙を吐く。

 「Нельзя курить.《タバコはいけません》」

 そしてニヤリと笑って、わたしを見る。わたしも負けずに質問する。

 「《どうしてタバコを吸うのですか》」
 「《それはですねえ、ソ連には娯楽がすくないからですよ。タバコはね、その数少ない娯楽なんです》」

 なぜか納得してしまった。

*        *         * 

 こんな感じで、いつしか寛いで雑談もできるようになったのだが、それでも授業中は相変わらず厳しかった。とくに厳しいのが試験。学期末に定期試験があることは、たとえ研究科になっても変わらない。しかも発音テストである。

 試験当日、わたしたちは指定されたテキストを、一人ひとり発音する。各自の前にはマイクが用意されていて、そこに向かって吹き込むのである。全員が終わるとテープを巻き戻し、今度はそれを再生しながら、一夫先生のコメントを聴く。

 「《まだまだウダレーニエが弱いですねえ》」

 多喜子先生から長年にわたって指導を受け、強く発音しようと常に心がけているウダレーニエなのだが、一夫先生によればまだまだ弱いのである。それどころか、多喜子先生の発音だって弱いとおっしゃる。
 どうしてそれほどまでに、ウダレーニエを強く発音しなければならないのか。

 「《ロシア語のウダレーニエとは、実に強いものなのです。そりゃ実際に話すときは、もっと弱くなりますよ。でも普段から弱いようでは、本番ではもっと弱くなってしまいます。それではダメだから、授業中は意識的に、強く発音する練習をするのです》」

 授業中に「自然に」話しているようではダメなのだ。
 静かで、落ち着いて、先生をはじめ皆が耳を傾ける中で、いくら上手に発音できたところで、本番はそんなふうにいかない。周りが煩かったり、相手がそっぽを向いているところで注意を引きつけたり、コミュニケーションとはそういう駆け引きではないか。通訳の場面だって、大声を張り上げることはしょっちゅうだ。
 怒鳴ったことのない外国語は本物ではない。

 ということで、一夫先生からウダレーニエが弱いと指摘されれば、強くするべく努力するしかない。

 「Это не по-русски.《そんなのはロシア語じゃありませんね》」

 こんな厳しいことばをいただいても、じっと我慢のウダレーニエであった。

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