現代書館

WEBマガジン 18/02/27


第23回 6−4 拝啓、グエン・バン・リン書記長殿(その4)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 厳しい試験のあと、たった一回だけだが、一夫先生を囲んで近くの「グリシェン」というお店に、飲みに行ったことがあった。
 このときのことはよく覚えている。クラスメートは貝澤くんや、かつていっしょに通訳の仕事をした池田さん、大原さん、玉城さん、さらに多喜子先生も自分の授業が終わってから、遅れて登場した。池田さんたちは一夫先生とすでに何回も、いっしょに飲みに行ったことがあるらしいが、わたしや貝澤くんははじめてである。とにかく楽しい晩だった。

 一夫先生は肉が大好きだった。肉をたくさん食べることが、幸福であると信じていた。授業中にも、ソ連は安い値段でよい肉が手に入る、日本とは大違いだと強調しておられた。
 
 「《でもね、ソ連の肉屋では骨も合わせて重さを測りますからね、なるべく骨の少なそうなところを選ぶようにするのが、コツなんですよ》」

と、先生は可笑しそうに笑っておらした。

 グリシェンでも、一夫先生は肉をたくさん注文した。多喜子先生に「ほら、ザクースカが足りませんよ。コロコロステーキを注文しましょう」と促す。
 закускаザクースカとは「つまみ」のこと。ただし一夫先生のイメージでは、和風のちまちましたつまみではなく、ソ連風のしっかりとしたステーキがザクースカだったのかもしれない。

 牛肉を角切りにしたコロコロステーキは、一夫先生のお気に入りらしかった。お酒は健康上の理由から控えていらっしゃるようだったが、それでもそのときはレモン酎ハイを盛んに飲んでいらした。
 
 「こんなのは水みたいなものです」

 わたしたちは笑った。多喜子先生は、「プリパダバーチェリは若い人と話すのが大好きなのよね」とおっしゃった。
 「преподавательプリパダバーチェリ」とは男性教師のことで、女性なら「преподавательницаプリパダバーチェリニツァ」、どちらも『標準ロシア語入門』の第一課で習う基本単語である。夫婦間で、「プリパダバーチェリ」「プリパダバーチェリニツァ」と呼び合うのが、なんだか面白かった。
 
       *       *       *

 思い返してみれば、このときまで一夫先生と日本語で話したことはほとんどなかった。多喜子先生もそうだったが、とくに一夫先生の場合は、たとえ授業が始まる前後でも、教室では常にロシア語である。だが呑み屋ではさすがに日本語で、わたしはすこしだけリラックスした。

 「貝澤さんを見ていますと、以前ミールに通っていた優秀な生徒を思い出しますね」

 かつて入門科ですこし習った、角田安正先生のことらしい。

 「黒田さんはね、うちの息子に似ていますよ。やさしい子です」

 そういえば、先生ご夫妻には息子さんがいらしたのだった。
 
 「実は昔、息子にもロシア語を仕込んだことがあったのですがね。どうも親子というのは難しいものです。ついつい厳しく接してしまって、イヤになってしまいましたね、残念ながら」

 そういうものかもしれない。わたし自身、父親には反発する息子だった。だから先生の息子さんの気持ちもよくわかる。
 ミールでは、ちょっとダメな「ニセ息子」でいることにしよう。それがわたしに与えられた役割なのだ。
 そう考えながら、わたしはコロコロステーキを、もりもり食べた。

      *       *       *

 一夫先生はわたしや貝澤くんが大学院生、つまり研究者の卵であることを常に意識しておられた。二人が目立って若かったこともあり、一夫先生からはさまざまな忠告をいただいた。
 非常に記憶に残っているのは、次のことばである。

 「《黒田さんも貝澤さんも、研究者を目指しているんですよね。だったら、長生きしなければいけません。詩人だったら、プーシキンやレールモントフみたいに、よい詩を書いてさっさと死んでしまうことだってあるでしょう。しかし研究というものは、成果が上がるまで時間がかかります。だから長生きしなければならないのです》」

 わたしはこのことばを、今でも大切にしている。
 そんな一夫先生ご自身は、二〇〇五年九月に、八十五歳で亡くなられた。

 あれから長い時間が経過した。結局わたしは、何年ミールでロシア語を習っていたのだろうか。正確には思い出せない。というのも、わたしは一夫先生の授業を受けながら、次第にミールで教えるようになっていたのである。
 この話は、第二部で語ることにしよう。

 習いながら教える。教えながら通訳する。通訳しながら大学院に通う。
 二十代のわたしが忙しかったことだけは、鮮明に記憶している。

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【予告】ご好評いただいております、黒田龍之助先生のWeb連載「ぼくたちのロシア語学校」は今回(第23回:2月27日更新)をもちまして第1部(生徒時代)終了です。3月6日に第2部(講師時代)の冒頭をおまけで掲載し、本連載は終了となります。


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