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第5回 2−1 笑えない笑い話との格闘(その1) |
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黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」
わたしは試験が得意ではない。とくに入学試験がダメなのだ。だから受験期となり進学先を決めるときも、難しい大学は最初から諦めてみた。大学でロシア語が専攻できれば、はっきりいってどこでもよかったのである。 ところが不幸にして、ロシア語が専攻できて、しかもそれほど難しくない大学は、首都圏には皆無だった。英語やドイツ語ほど、選択の幅が広くないのである。そこで仕方なく、難関大学を受けることになる。共通一次試験で数学や理科まで要求する国立大学はどう考えても無理だったので、せめて文系科目だけで受験できる私立大学のロシア語学科などを受験した。結果は案の定、不合格だった。 だが一つだけ、試験科目が論述と英語だけという、斬新な入試方式を採用している文学部が池袋にあった。残念ながらロシア語学科はなかったが、その大学出身の野球選手の大ファンだった担任教師から強く勧められ(とはいえ、わたしは野球に一切興味がないのだが)、歴史が好きだからと試しに史学科を受験してみたら、運よく合格してしまった。自分でもビックリした。
合格発表は忘れもしない1983年2月28日、自宅に電話をかけ、家族に合格の報告をして、それから山の手線で池袋から代々木に出て、まっすぐミールへと向かった。東多喜子先生に会うのは実に半年以上ぶりである。
「先生、大学が決まりました」 「よかったわね。おめでとう。では、明日からミールの授業に復帰してください」 「分かりました」
何の違和感もなかった。その日はそのまま帰宅し、自宅の書棚から久しぶりに『標準ロシア語入門』を引っ張り出す。翌日の授業に備えるべく予習をしなければ。大きな声で、ウダレーニエは強く。数か月のブランクを挟んで、ちゃんと発音できるか、ちょっと不安である。 それでも幸せだった。 * * *
復帰したミールのクラスは、入門科から予科へと移るレベルだった。 現代の、とくに若い人から見れば、「入門科」とか「予科」という表現が奇妙に響くことだろう。それは当時のわたしも同じで、ほかの学校では耳にしない名称を不思議に思っていた。だが昔の学校は「入門科」「予科」「本科」のような分け方がふつうだったらしい。 ずっと後になって、第二次世界大戦後に洋裁学校へ通った農家の女性への聞き書きを読んだのだが、地域を問わず、どの洋裁学校も「入門科」「予科」「本科」のようなクラス分けになっていて驚いた。それどころか各科の就学期間までが、ミールと同じだった。
入門科:6か月 予科:6か月 本科:2年
わたしは3月いっぱい入門科で学び、『標準ロシア語入門』を最後まで学習した。4月からはいよいよ予科に進級である。曜日は同じく水曜日と土曜日だったが、授業時間は午後7時35分から9時5分と遅くなった。 予科の授業は入門科以上にロシア語中心でおこなわれた。 もともとミールでは、授業中に日本語を話すことが憚られる。ただし入門科レベルでは表現できる範囲も限られているため、多少は日本語を使うことも許された。だが予科ともなれば、ロシア語ですべて表現することが求められるのである。実際、そのくらいの知識は学んできたはずなのだ。 授業のはじめに、多喜子先生が質問する。 「Который час? 《いま何時ですか?》」 (この先、《 》内は本来ロシア語であることを示す)
わたしは素早く腕時計に目をやる。 「《7時32分です》」
ここで必ずといってよいほど、多喜子先生から注意を受ける。 「《もう一度いってください》」
そうなのだ、「32分」という表現は、「分」が女性名詞だから「2」も女性形を選ばなければならない。それをつい男性形で答えてしまうから、間違いを指摘されてしまう。3分とはいえ、授業開始前から勇んでやって来ているのに、初っ端からダメ出しをされて落ち込む。 だが、悲しんでいる暇はない。これから90分間、さらに厳しいダメ出しの連続を覚悟しなければならないのだ。
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