現代書館

WEBマガジン 17/07/18


第8回 2−4 笑えない笑い話との格闘(その4)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 笑えない笑い話に四苦八苦するわたしだったが、クラスメートはそんなそぶりも見せず、淡々と予習復習をこなし、授業中は確実に答えているように見えた。
 わたしは入門科時代から常にクラスの最年少だった。ほかは社会人ばかりで、中にはかなりおじさんに見える人もいたが、いまになって思えば、それほどではなかったのかもしれない。
 
 入門科のクラスでわたしの斜右隣り、先生からすると正面の席に座っていたのは、村上さんという女性だった。年齢は分からないが、おそらく20代くらいで、会社員らしかった。席が近いこともあり、親切にしてもらった。
 彼女はモンゴルが好きで、おかげで授業中に「モンゴル」がしばしば出てきた。すこし早口の彼女が

「Меня интересует Монголия.《わたしはモンゴルに興味があります》」

とロシア語で答える声が、いまでも耳の中に残っている。
 だが大学受験を終えて復学した後は、彼女といっしょになることがなかった。
 
    *         *      *

 進級した予科のクラスは混んでいた。クラスメートは相変わらずおじさん、おばさんばかりだったが、大学生もいた。といっても、わたしのような1年生ではなく、もうすこし学年が上だった。
 大学生は何人かいたが、中に目立ってロシア語ができる大学生が1人いた。貝澤哉くんである。
 
 貝澤くんは当時、確か大学2年生だったと思う。長めの髪には軽くウェーブがかかり、初対面のときには白いズボンと白いウインドブレーカーを着ていたのが印象的だ。口数は決して多くはなく、クールな印象を与えた。
 個人的に話すときは静かだったが、それが授業中となると、まるで人格が変わったかのように、大きな声で理想的なロシア語を発音する。
 
 「Хорошо! ハラショー!」
 
 貝澤くんに対して、先生方からこれ以外の評価の出た記憶がない。例文はきちんと暗唱してくるし、覚えたことを上手に応用して質問に答えるし、さらにはわたしの知らない単語を使って、先生と高度な会話をしていた。
 凄すぎるのである。
 
 こういう人をライバル視しても、どうせ敵いっこない。そもそも競うのは苦手なので、それよりも優秀な彼から学んだほうがいい。わたしは彼のことを「よくできる兄」と考えることにした。
 長男であるわたしには、どこかお兄さんを求める志向があるのかもしれない。とはいえ決して素直な「弟」にはなれないし、貝澤くんにしても屈折したヤツが勝手についてくると、手を焼いていたに違いない。
 
 ご存じの方も多いだろうが、貝澤くんは現在、早稲田大学で教えながらNHKのテレビ講座なんかも担当している。
 
 ミールの授業は週2回である。貝澤くんもわたしも休むことはまずなかったので、週に2回、確実に顔を合わせていた。しかも少人数だから、大学と比べてもずっと密度の高い授業をいっしょに受けてきたことになる。
 
 最近の大学は少人数を謳う授業が増えているが、回数については相変わらず週1回を基本としている。第二外国語に関していえば、それまでの週2回を1回に減らし、その代わりに少人数にしている所さえあると聞く。
 しかもそれが半期だけだったり、中級や上級のクラスはなかったりする。それでは効果が上がるはずもない。
 
 昔の芸事というものは、ほとんど毎日だったらしい。子どもは学校から帰ると、すぐに三味線や長唄などの教室へと急ぐ。しかも今のように月曜日は英会話、火曜日は水泳教室というのではなく、毎日同じお師匠さんの所へ通って同じことを習うのである。
 「身につける」というのは、そういう訓練を通してのみ実現できる。
 
 ミールの授業はどのクラスも週2回だった。昔の習い事に比べれば少ないが、それでも週1回がふつうの外国語教室が圧倒的な中では、絶対的に多い。
 社会人の場合は週2回が厳しいという人も多いから、週1回にしたほうが生徒は集まる。それでもミールは絶対に週2回であった。
 
 週1回の授業でも効果がないわけではない。ただしその場合は、少なくとも2年間は休まず勉強することが条件である。
 わたしは後に、新宿にあるカルチャーセンターでセルビア語を2年半、チェコ語を3年、どちらも週1回のコースで学習したが、それが曲がりなりにもうまくいったのは、ロシア語の知識に支えられたことに加え、週1回の授業を休まず2年以上続けたからである。
 
 大学は大学らしく、文法構造を?むとか、すでに知っている外国語と対照しながら概説するなど、適切な方法を採ればよいのだが、そういう授業はすくない。教師は入門書にしたがって、文字と発音からノロノロと進め、学期が終わればハイさよなら。
 その結果、生徒は3カ月もすれば、読み方すら忘れてしまうのである。
 
 そもそもミールでは、週2回の授業を受けるだけでもかなり大変である。
 授業中の緊張もさることながら、予習と復習をしっかりおこなうには、授業のない日も家で毎日のように勉強しなければならない。
 かつて非常に熱心な生徒が2クラスを並行して、つまり週に4回もミールで学んだことがあったという。その人は非常に上達し、後にロシア語通訳になったそうだ。
 
 わたしには週4回の授業を受けるほどの余裕も勇気もなかったのだが、それでも授業以外に、語彙を増やすことだけは努めた。ロシア語基礎語彙集をあれこれ買い集めては、自分で単語帳を作り、それを覚えていった。
 単語が一つでも増えれば、それだけ表現の幅が増える。すべてはミールの授業でうまく会話するためである。
 
    *        *          *
 
笑えない笑い話と格闘しながら、休まずせっせと通い続け、半年後には予科が修了となった。
 次はいよいよ本科である。ただし本科に進むためには、試験を受けなければならない。
 わたしは入学試験に限らず、ありとあらゆる試験が苦手だった。高校の期末試験のように範囲が明確に分かっていても、上手に勉強ができない。
 
 ミールの本科進級試験も、範囲が決まっていた。『標準ロシア語入門』である。とにかくこれに尽きるのだ。
 問題は筆記による和文露訳のみ、そのうち『標準ロシア語入門』が9割以上を占める。笑えない笑い話からはそれほど出題されない。それは助かったのだが、入門書まるまる1冊が範囲というのは、かなりの負担である。
 
 試験当日。まず受験者にわら半紙が配られる。そこには何も書かれていない。各自で名前を記したあと、多喜子先生が日本語を読み上げるので、それをわら半紙に書き留める。解答はあとでおこない、まずは日本語の問題のみを、しかも解答欄を考慮して行間を開けながら書いておく。
 問題数は決して少なくなく、書き留めているだけで手が痛くなるが、文句をいう余裕もない。
 
 日本語を書き終えたらいよいよ試験開始。時間はほとんどない。追われるようにロシア語訳を書き込んでいく。反射的に書けるようでなければダメなのである。
 
後日、試験の結果を伺いに多喜子先生のところへ伺う。
 
 「ああ、黒田さん。先日の進級試験の結果はこれです」
 
 答案用紙を見せられる。赤ペンで×がたくさん書き込まれている。
 
 「黒田さんなら、もうすこし出来るかと思ってたんですけど」
 ……すみません。
 
 「でもまあ、よく頑張りましたし、それに今のあなたのクラスには貝澤さんのような方もいますから、あなたもこの先みなさんといっしょに勉強したほうがいいと思います。すこしオマケということで、本科に進級ということにしましょう」
 
 ありがとうございます!
 なんだか貝澤くんに救われたようなかたちとなって、少々複雑な気持ちだが、進級できることは嬉しい。この先も頑張りますので、よろしくお願いします。
 
 本科では授業の曜日も変わり、わたしは月曜日と木曜日に通うことになった。土曜日が空いたことは嬉しいが、勉強はますます難しくなるわけで、この先は非常に忙しくなる。
 
 19歳のわたしには、その忙しさが嬉しかった。


 

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