現代書館

WEBマガジン 17/08/01


第9回 3−1 一生のバイブルとの出合い(その1)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 大学生活は忙しい。授業やレポート以外にも、サークル活動があったり、合宿があったり、アルバイトがあったり、友だちとお茶を飲んだり、コーヒーを飲んだり、ビールを飲んだりと、やることが次から次へとある。そのほかにも本を読んだり、古書街を歩いたり、図書館へ行ったり、映画を観たり、旅行したりするのだから、時間がいくらあっても足りない。
 
 それでもミール・ロシア語研究所の授業だけは、決して休まなかった。
 わたしにとって優先順位は、ミールの授業が常に第1位で、それ以外の行動はその合間をぬって予定を入れた。ときには大学の試験よりもミールを優先したことさえあったが、そこには何の矛盾も感じていなかった。
 ロシア語がうまくなりたい。それ以外は何も考えない、お気楽でおバカな大学生だったのである。

    *          *           *

 本科は基本的に2年コースで、1年目が本科A、2年目が本科Bとなる。本科Aでは3か月ごとに試験があり、これを4回クリアしなければ次の本科Bへ上がれない。厳しい。試験の苦手なわたしは、最初から気が重かった。
 わたしが属したクラスには、いっしょに進級した貝澤くんなどの他に、すでに数か月前から勉強を続けている先輩もいた。各自の進度もさまざまで、出会ったと思ったらすぐに次のクラスへ移ってしまう人もいたし、いつまでも同じクラスに通っている人もいた。さらには下からもどんどん上がってくる。人の出入りが激しかった。
 
 あまりにも激しくて、本科の授業については記憶が混乱しており、時間軸に沿って再現できる自信がない。この先は断片的な思い出をばらばらと語ることになる。
 
 授業の様子や人はアヤフヤなのに、使用した教材は比較的よく覚えている。なかでも本科を通して徹底的に暗唱した教材は、一生忘れることがないだろう。
 東一夫・東多喜子『改訂版 標準ロシア会話』(白水社)である。
 
 これは同じ白水社から1968年に出版された『標準ロシア会話』を、大幅に増補改訂したものである。

 わたしの手元にある改訂版は1980年発行の初版で、全390ページ、このうち基礎編が50ページほどで、残りが応用編である。
 応用編は「人、交際、交流」「衣食住」「人体、医療」のようにテーマごとにまとめられ、さらにそれが「あいさつ」「初対面、紹介」「名前、敬称、呼びかけ」のように細かく分類される。
 内容のレベルも非常に高い。通り一遍の慣用表現を並べただけの、そんじょそこらの会話集といっしょにしてもらっては困る。
 
 『改訂版 標準ロシア会話』は『標準ロシア語入門』と同様に、市販の独習参考書であった。現在では絶版だが、当時は誰にでも入手可能だったのである。だがこの教材を本当の意味でモノにしようというのなら、絶対にミールへ通わなければならない。
 
 この会話集はミール内で「ラズガボールニク разговорник」と呼ばれていた。ロシア語で「会話集」という意味である。ラズガボールニクはミール本科生のバイブルといっていい。常に肌身離さず持ち歩き、すべての例文の暗唱に努める。それが目標だった。
 
 わたしが最初に学んだ本科のクラスでは、ラズガボールニクのどこか途中から始まった。いま手元にあるボロボロの『改訂版 標準ロシア会話』を見直し、いったいどこから始めたか懸命に思い出そうとするのだが、皆目不明である。
 何回も何回もくり返して使ったので、あちこち書き込みだらけ。いろんな日にちが書いてあるのは、おそらく多喜子先生が指定する予習の範囲をメモしておいたのだろう。
 なかには同じ個所に複数の日付が書かれていたりして、学習状況を再現するのはどうにも不可能である。
 
 一例として「衣・食・住」のうち、「衣服」の「洋服・洋品・靴店その他で」から例文の和訳を挙げてみよう。
 
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 「私(の身長)にあう洋服(オーバー、レインコート)がありますか?」
 「私(の体)にあうパジャマを選んで下さい」
 「私はこの背広の型が気にいりません。ほかの型はありませんか?」
 「これと同じデザインで、別な色合(柄)のワンピースはありますか?」
 「このオーバーは色が明るすぎます。もっと暗い色のはありませんか?」
 ……
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 文法書と違い、会話集ではさまざまな例文が並ぶ。いくら和訳が添えられているとはいえ、所有構文、命令形、否定生格、比較級などがアトランダムに現れる。それを自分で確認し、構文を理解するのは楽ではない。
 
 授業では事前にラズガボールニクから1、2ページ分、例文数にしてざっと30から40ほどが指定され、予習つまり暗唱してくることが求められる。かなりの負担であることが想像できるだろう。もちろん正しい発音で、ウダレーニエは強く。これは鉄則である。

 ラズガボールニクには例文だけでなく、テーマに沿った単語が並んでいるページもある。単語だったら楽かといえば、決してそういうことはなく、むしろ文脈がないので記憶するのがタイヘンなのである。
 
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 「織物、布地」「絹;〜の」「絹織物」「木綿〔の布地〕、綿布」「亜麻織物」「合成繊維」「ウール;〜の」「毛織物」「毛糸」「ナイロン;〜の」……
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 ときどき「;〜の」となっているのは、形容詞が挙がっていることを示している。これがまた実にさまざまな語尾を持ち、さらに負担である。

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 ……「サテン」「繻子」「ビロード」「クレプ・デ・シン」「ギャバジン」……
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 ちょっと待って、クレプ・デ・シンって何? ギャバジンなんて、生地じゃなくて胃薬みたいじゃん(それはキャベジン)。
 社会に出たことのない世間知らずの大学生の語彙なんて、所詮はそんなものである。


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