現代書館

WEBマガジン 17/08/15


第10回 3−2 一生のバイブルとの出合い(その2)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 ラズガボールニクを使っても、本科の授業の進め方は入門科と変わらなかった。まずは口頭で露文和訳、つぎに同じく口頭で和文露訳、それが終わったら学習した内容を応用して会話練習をする。とにかくこのパターンなのだ。
 そしてそのためには自宅での準備、つまり暗唱するまで発音練習してくることが欠かせないことも同じである。

 ラズガボールニクには市販のカセットテープがついていた。吹込み者のひとりはモスクワ放送のアナウンサーで、かつてNHKテレビのロシア語講座にも出演していたウラジーミル・ウーヒンさんである。ヂャーヂャ・ワローヂャの愛称で親しまれ、わたしも大ファンだったから、後に彼の通訳をしたときにはテレビを観ていたことと並んで、ラズガボールニクのカセットテープを懸命に聴いたことを話すことができて、天にも昇る気持ちだった。ウーヒンさんも喜んでくれた。

 だが授業中に聴くのはウーヒンさんの声ではなく、東先生ご夫妻がオリジナルで作成した本科用カセットテープだった。
 まず多喜子先生の声で日本語が流れる。その後しばらくポーズが置かれ、その間に生徒はロシア語訳を答えなければならない。一定の時間が経つと、一夫先生による正解が流れるので、生徒はその前に正しく答える必要がある。

 このオリジナルテープは手作り感満載だった。
 多喜子先生の日本語と一夫先生のロシア語の間で、ポーズが終わると「チーン」とジングルが入るのだが、これがどう聞いてもお茶碗を叩いているかのような音なのである。なんだか可笑しい。
 こちらは聴き取るために耳をよくよく澄ましているので、ときには遠くで鳴る自動車のクラクションまで聞こえてしまう。
 ご自宅で収録されたのだろうか。先生ご夫妻が録音機を挟んでラズガボールニクを吹き込んでいる姿を想像すると、なんだか微笑ましい。

 などとつまらぬ空想をしていると、気がつけば自分の番。慌てて答えるのだが発音が疎かになってしまい、テープを止めた多喜子先生から「Ещё раз!《もう一度!》」と促される。

 ラズガボールニクは暗唱のために同じところをくり返し開くことになる。指定されたページばかりが汚れ、本の背の部分には黒い筋が入っていく。この筋がだんだんと太くなることが勉強の証。やがて全体が黒ずんだとき、ロシア語が話せるようになるのである。
 駆け出しの通訳時代、わたしはいつもラズガボールニクを握りしめていた。カバーは紛失し、表紙の緑色のビニール装も薄汚れてしまったボロボロの一冊。 だが、たとえページを開かなくても、これが手元にあるだけで心が落ち着いた。事情を知らない人には、奇妙に映ったことだろうが、わたしにとってはお守りだったのである。

       *         *          *

 教育は流行り廃れの激しい世界だが、日本ではすでに何十年も「暗記教育」が敵視されている。意味も分からず、ただただ丸暗記をするのは無駄であるばかりでなく、学習者の創造性まで奪うかのように嫌われる。
 その代わりに、なにやら与えられたテーマを闇雲に調べたり、未熟なプレゼンテーションをさせたりすることが、推奨されるようになった。
 
 だが外国語教育についていえば、暗唱は欠かせない。
 というか、暗唱してこなかった学習者の外国語は、底が浅いのだ。

 そもそも基礎的な知識がないまま何かを調べたところで、入手した情報を判断することもできなければ、人さまに聞いていただけるようなプレゼンテーションにまとめ上げることも不可能である。
 殊に外国語教育の初歩となれば、何か調べるなんて土台むりな話。手持ちのカードがまったくないままゲームをしろといわれても、途方に暮れるだけに決まっている。だから暗唱して、手持ちのカードを増やすのである。

 当時のわたしには暗唱しかなかった。日本語社会で暮らしながらロシア語を身につけるのに、ほかにどんな方法があるというのか。ひとりで覚えることができれば理想的だが、意志の弱いわたしには、毎週二回、多喜子先生からダメ出しされることが貴重だった。

 暗唱は苦しい。なかなか覚えられない自分にいら立つ。なにか中途半端で落ち着かない気分が続くのも耐え難い。できることなら別の方法を探したい。面倒な暗唱ではなく、なんとか自然に覚えられないものか。
 本当は「自然」ではなくて「楽(らく)して」覚えることを狙っているのだが、とにかくそのような自然に覚えられる環境を求めて、現代人は留学する。

 だが国内で充分な外国語運用能力を身につけないまま留学した人の外国語は、一見すると流暢だが、実は自信がなくて弱々しい。しかも暗唱を通して成長するチャンスをひとたび逃せば、二度とやり直せない。
 さらには一定期間がすぎれば、一年くらい現地で覚えた外国語なんて、忘れ果ててしまうのである。

【最新記事】
GO TOP
| ご注文方法 | 会社案内 | 個人情報保護 | リンク集 |

〒102-0072東京都千代田区飯田橋3-2-5
TEL:03-3221-1321 FAX:03-3262-5906