現代書館

WEBマガジン 17/09/26


第13回 途中から参加するドラマ(その1)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 大学編入とは、テレビドラマを途中から観るようなものである。
 わたしが四谷の大学の2年次に編入してみれば、クラスメートたちの間では、すでに人間関係ができあがっていた。しかも学年が入り乱れる。
 ここのロシア語学科は、俗に「地獄」と呼ばれるほど厳しく、3年目、4年目の学生が落第の結果、同じ2年生の授業を受けることも珍しくなかった。反対に、本来は2年生になるべきところ、成績が振るわずに、1年生をくり返している学生もいて、そういう「1年生」は当然ながら、わたしのクラスメートと知り合いというわけで、話はますます複雑である。
 
 人づてに聞けば、黒田があっという間にクラスに馴染んだことに、教員たちは安堵したそうだが、わたしはじっと観察して、お互いの関係を的確に掴むよう、密かに努めていたのだ。しかも関係を掴むだけではダメで、自ら参加しなければならないドラマなのである。
 
 振り返ってみれば、わたしの外国語学習は常に「途中から」だった。
 小学6年生のとき、人に勧められてNHKのラジオ講座で英語を勉強することにしたのだが、聴き始めたときにはすでに5月となっていた。4月分はテキストを頼りに、ひとりで学習するしかなかった。
 ミールについても、すでに紹介したように、どのクラスもたいてい途中から参加した。一から始めるということは、ほとんどなかった。だが、別に悪くはない。足りない分は、自分で補えば済むこと。そもそも人生は、誰もが途中から、この世に参加するのである。
 とはいえ、教材を途中から学びはじめるのは、楽ではない。
 
 ミールの本科では、『標準ロシア会話』のほかにも教材があった。
 ロシア語学習用読本は、月曜日と木曜日で違うものを使っていたが、そのうちの一つ(どちらの曜日だったかは忘れたが)は、長篇物語だった。ところがわたしが授業に加わったときには、その教材がすでに絶版だったのである。
 そこで多喜子先生からコピーをいただいて、授業に備えることにした。
 指定されたのは、長篇物語のうち「一般家庭でお客に呼ばれて」という新しい章である。予習のために自宅で読むのだが、冒頭部分はこんなふうに始まっていた。
 
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 数日後、オレーグが大学寮にいると、ドアがノックされた。「どうぞお入りください」とオレーグはいったが、アンドレイを見て非常に驚いた。「いったいどっから来たんだよ、アンドレイ?」
 「もちろん『スプートニク』からさ」と、アンドレイは明るく答えた。
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 ちょっと待て、オレーグって誰? アンドレイとはどういう関係? 「スプートニク」って、まさか人工衛星じゃないよね?
 コピーの隅を見れば、68ページと印刷されている。いくら新しい章からのスタートでも、それまでの67ページ分の人間関係が、皆目分からないではないか。テキストがまるごとあればいいが、コピーで部分的にもらっているので、これより前の部分は手元にない。たとえあったところで、当時のわたしのロシア語力では、短時間で目を通すことはできなかっただろう。
 
 この教材は、エブゲーニヤ・レシュケ著『Один год молодой семьи(若い家族の1年)』(モスクワ、1981年)という。ミールの生徒たちは、主人公2人の名前を取って「オレーグとマリーヤ」と呼んでいた(ちなみに「スプートニク」とは、クリミアにあった若者向け国際保養施設で、物語はそこから始まるのだった)。
 
 この本のまえがき部分を訳出してみよう。
 
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 読者の皆様へ。お手元にあるのは、ふつうの本とは全然違います。中には数字や表がたくさんありますが、だからといって社会学研究ではありません。抒情的な主人公、「彼」と「彼女」が登場しますが、恋愛物語というわけでもないのです。この本はロシア語を学習中で、しかもソビエトの若者の生活に興味がある方に向けて、執筆されました。
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 つまり物語を装いながら、ソ連社会を紹介するロシア語教材なのである。オレーグとマリーヤという平均的な若者2人が出会い、結婚し、子どもができるまでの過程を追いながら、ソ連の、主に若者の生活の現状分析を紹介する。
 全250ページ弱、基本的には基礎語彙三千語で書かれていて、それ以上の難しい語彙には、英語で訳が添えてある(ちなみに書名もOne Year of a Young Familyという英訳がある)。全編にわたって、ウダレーニエの位置を示す記号がついているから、この点も助かる。
 
 ロシア語教師になった後、この本が偶然に手に入ったので、一とおり目を通したのだが、読めば読むほど実によくできていて、感心してしまった。
 中級レベルの学習者が覚えるべき単語や表現が満載。物語の展開も教材にしては悪くないし、オレーグとマリーヤの行方もけっこう気になる。ときどき挿入される統計などは、多少わざとらしくもあるが、そこに示されるデータはなかなか面白い。
 
 もちろん、いまとなっては時代遅れであるが、ではこれに匹敵するような教材が現在あるかといえば、すくなくともわたしは知らない。この先、ロシア語中級講読を担当するようなことがあったら、わたしはこれを選んでもいいとさえ考えている。
 一定の時が経過した現在、70〜80年代の若者の実態やデータを客観的に知ることもまた、いろんな意味で勉強になるのではないか。いくら現状を追い求めたところで、どうせすぐに変わってしまう。世の中は移ろいゆくのである。
 
 そうはいっても、この物語を途中から読み始めたときは、絶望的な気持ちになってしまったのである。

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