現代書館

WEBマガジン 17/10/24


第15回 4−3 途中から参加するドラマ(その3)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 考えてみれば、「オレーグとマリーヤ」の物語を途中から読んだのは、わたしだけでなく、同じクラスのほとんどが、そうだったのかもしれない。授業では毎回1、2ページくらいしか進まないから、68ページに到達するまでには1年以上かかったはずで、だとすれば最初のほうを読んだ生徒は、すでに上のクラスに進級している。みんな澄ました顔で授業を受けているが、当初はわたしと同じようなショックを、密かに受けたのではないか。
 
 澄まして課題をこなす生徒が多い中で、やたらに素直で、しかも元気のいい女性がいた。
 筆塚真理子(ふでづかまりこ)さんだった。
 
 女性の年齢は分からないものだが、当時の彼女は30代後半くらいではなかったかと想像する。労働組合の事務所に勤め、ロシア語学習歴もかなり長いようだったが、大きな目をクリクリさせながら、授業中にときどき天然ボケを発揮する、剽軽で明るいお姉さんだった。
 
 彼女はわたしのことを「Дракончик(ドラコーンチク)」と呼んだ。わたしは昔から友だちには「龍ちゃん」と呼ばれていたのだが、それをロシア語に訳せばドラコーンチクとなる。そんな話をしたところ、彼女はこれが非常に気に入って、以来いつでもドラコーンチクだった。
 
 「ドラコーンチクさん、ちょっとね、これから飲みに行きましょうよ」

 授業後に飲みに行くのは、貝澤くんやボヤキのサラリーマンが多く、女性はあまり行かなかったのだが、筆塚さんは違った。代々木駅周辺のお好み焼き屋とか居酒屋に行っては、ロシア語やソ連の話を夢中でしながら、2人でビールを酌み交わした。どちらもお金があまりなかったので、駅前の中華屋ではビールの他に搾菜くらいしか頼めなかったのだが、わたしたちは図々しくも、その搾菜をお代わりまでして粘った。たまにお金があると、「きょう生きている喜びを噛みしめましょう」とかいって、餃子を注文するのが贅沢だった。
 
 1980年代後半は、ゴルバチョフによるペレストロイカ政策のおかげもあって、日ソ関係には明るい兆しが見え始めてきた頃である。両国間の交流事業も増え、大学生のわたしにさえ、通訳の仕事がすこしずつ入るようになる。筆塚さんとは、ミールから紹介された仕事をいっしょにやったこともあったが、彼女には日ソ間の親善団体にも知り合いがいて、そこの仕事に誘われることもあった。
 2人でいっしょに仕事をするときは、なんだか通訳プロダクションみたいな気分だったので、わたしは彼女のことを「マリコ社長」と呼び、「マリーズ事務所」を名乗った。もちろん冗談でやっていたのだが、中にはこれを真に受けて、架空のマリーズ事務所に仕事が本当に来てしまうことすらあり、2人で大笑いした。

           *         *         *
 
 マリコ社長は過去をあまり語らない人だった。四国の、確か徳島県の出身で、短大を出てから東京に来て就職したのだが、ある尊敬する人の勧めで、ロシア語を学ぶようになったという。だが、それ以上のことは知らない。
 
 彼女は知り合いが多く、わたしもいろいろな集まりに連れて行かれた。ロシア人が来るときもあったが、彼女が自分の友だちとパーティーをするからと、誘われることも多かった。
 そういうところに集まるのは、マリコ社長と同じく変わった人ばかりで、さらに話を聞いてみれば、かつてロシア語を勉強していたとか、実はミールに通っていたという人さえいた。いったいどういう知り合いなのか、四谷の大学で人間関係を掴む技術を身につけたわたしにも、さっぱり理解できない。
 だがつき合うにしたがって親しくなり、そういう人たちからも、ドラコーンチクと呼ばれるようになった。
 
 ある日マリコ社長から、いきなり電話がかかってきた。
 「あのね、ドラコーンチクさん、いま通訳が足りないから、これから来てくれない?」
 そりゃマリコ社長の頼みとあれば、すぐにも飛んでいきますけどね。今どこなんです?
 「それがね、NHKなの」
 
 なんでもモスクワから送られてきたビデオを編集して、夕方のニュースに間に合わせるため字幕作りを急いでいるのだという。マリコ社長はいったいどこから、そういう仕事を見つけてくるのか、相変わらず不思議だったが、わたしはとにかくNHKに駆けつけ、2人で手分けをして、ビデオの字幕を作った。詳しくは忘れてしまったが、シュワルナゼ外相(当時)のクセのあるロシア語に苦戦したことだけが、印象に残っている。

 それから10年以上も後のことだが、マリコ社長は労働組合の事務所を辞め、ロシア語通訳業に専念することになったと、人づてに聞いた。NHKの衛星放送で世界のニュースを紹介する番組を見ていて、それがロシアのニュースになると、ときどき右下に「通訳:筆塚真理子」という名前を見かけた。
 ほほう、マリコ社長、相変わらずNHKで活躍しているんだね。通訳業から離れて、大学教師になったわたしは、懐かしくも嬉しく思っていた。

          *         *         *
 
 だから突然の訃報に接したときは、ことばもなかった。確か52、3歳だったと思う。
 わたしが21世紀になって泣いたのは、今のところ、このときだけである。
 
 お通夜に行く途中、多喜子先生に会った。「そうね、黒田さんは筆塚さんと仲が良かったですものね」
 そうなんです。しかもただ仲が良いだけじゃなくて、彼女はいろんなことを教えてくれた、お姉さんみたいに大切な人だったんです。
 
 その頃わたしは、テレビ講座に講師として出演することが、すでに決まっていた。NHK局内でマリコ社長に会えるんじゃないかと、密かに楽しみにしていたのだが、それも叶わぬ夢となった。
 筆塚さんはわたしの人生に突然現れ、途中で忽然と消えてしまった。

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