現代書館

WEBマガジン 17/12/05


第18回 5−2 永久凍土と間欠泉(その2)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 ミール・ロシア語研究所では、かつて国内合宿や通訳実習なども実施していたらしいのだが、わたしが通っていた1980年代に、そのような行事が果たして存在したのか、すくなくとも参加したことはない。ただ通訳については、すでに触れたように、ミールを通じて仕事が紹介されることがあった。
 
はじめて通訳の仕事を経験したのは、1986年のことである。この年の8月から9月にかけて、ソビエト視察団が客船で3回にわたり、来日することになった。1回の視察ツアーはそれぞれ10日足らず。わたしはそのうち、第2回および第3回を担当することになった。
 視察団は総勢300人程度で、全部で七つのグループに分かれている。一つのグループは40〜50人で、それぞれにわたしたち通訳兼添乗員が同行し、7台のバスに分乗して見学施設や観光地を回る。主な仕事は、バス内および現地での案内だった。
 
 はじめての仕事に先立ち、経験のまったくなかったわたしに対して、旅行会社は第1回視察団が来日する際に、研修のつもりで1日同行してはどうかと勧めてくれた。いくらミールの推薦とはいえ、大学3年生に通訳を頼むのは、旅行会社としても不安だったろうし、わたしとしてもそのほうが安心である。交通費がタダで昼食付きということもあり、半分は物見遊山で参加した。確か、静岡県の登呂遺跡に出かけたと思う。
 
 新人通訳候補生として、わたしは自分以外の各グループの通訳兼添乗員6人に、それぞれ挨拶した。中には英語通訳もいて、その場合はソ連側の英語通訳と組んで仕事をしていたようだが、大半はロシア語通訳で、しかも多くがミールの上級生だった。
 上級生たちはときどき廊下ですれ違う程度で、なかには見たことのある顔もあったが、この仕事を通じて知り合うことになった。山口さん、滝澤さん、玉城さん、池田さん、大原さん。偶然にもみんな女性だった。

 登呂遺跡のときには、そのうちの一人であるベテランのバスに同乗して勉強した。彼女はわたしの知らない語彙をバンバン使いながら、マイクを通じて流暢に話していた。わたしは感心して聞いていた。
 
 ところがけしからんことに、ソビエト観光客の一部は話をロクに聴いていない。それよりも、研修として参加しているわたしに向かって、個人的なことをあれこれ質問してくるのである。日本の歴史や習慣より、ふつうの日本人がどのような生活を送っているかに、興味があるようだった。
 なるほど、観光地に関する知識は重要だけど、気張らずに日常を語ることも大切なんだな。だったら未熟なわたしは、等身大の自分を紹介しよう。
 そう考えることができて、すこしだけ心の緊張が解けた。
 
      *         *        *
 
 いよいよ自分が通訳をする第2回視察団が来日した。わたしは相変わらず最年少で、ロシア語もまだまだ実力不足だったことはいうまでもない。上級生たちから、観光地に関する資料をあれこれ貸してもらったり、ロシア語による日本案内もたくさんいただいたりしたが、それでも毎日が緊張の連続だった。
 
 今にして思えば、通訳という仕事に緊張していたのは、わたしだけではなかったかもしれない。上級生のなかには、今回が初仕事という人もいたようで、彼女たちは実によく準備していた。仕事は東京に限らず、名古屋、京都、神戸などにも出張したが、みんな遅くまで翌日の観光地の情報を復習し、ぎりぎりまでロシア語の準備をしていた。
 
 通訳の中にはプロもいた。やはり女性だったが、仕事がよくできる分、厳しい人だった。
 
 「黒田さん、通訳はね、褒められているうちはダメなの。何もいわれなくなって、はじめてプロなの」
 
 内面は緊張していても表には出さず、グイグイと荒削りな通訳をして、ソビエト観光客からお情けで褒めてもらっていたわたしを見て、彼女はそんなことをいった。調子に乗るなということなのだろう。厳しい人だと思った。
 ところが彼女は、わたしがミールで勉強していることを知ると、態度が急に変わった。聞けば、彼女もかつてミールで学んでいたという。
 
 「これからも頑張りなさい。あなた、才能あるわ。ミールも続けるのよ」
 
 その後も日本国内で、さまざまな通訳の仕事をしたのだが、何人かと組んで仕事をするとき、わたしが同僚にミールで勉強していることを明かすと、相手は必ず一目置いてくれた。大学と違って通訳の世界では、ミールが一つのステータスだった。


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